【お知らせ】連載中の長編VNについて

第46話 雲間

空一面を覆う厚い雲も、そこから降りしきる雪も、たなびいては消えていく吐息も、踏みしめるたびに軋んで歪む地面も、視界に映るすべてが灰色だった。
どこまでも続くその凍てついた世界を、ただひたすらに歩き続けていた。
松明を持つ右手を動かせば、雪が激しく吹き募るさまが赤く照らし出される。
烈しい吹雪の向こうに待ち受けるおのれの半身。一つの魂を二つに分かち合って生まれた、たった一人の家族を、今から――。
胸の底を荒らす感情に堪えきれず左手を動かし、腰に佩いた聖剣の柄を握る。冷え切って感覚が失われた指先がたちまち熱を帯び、甲に刻まれた聖痕が痛いほど脈打つ。
やがて辿り着いた世界の果て、彼はたったひとりで佇んでいた。
なにもかもが灰色の世界の中で、こちらを見据える瞳だけが滲むように赤い。きっと彼の目からは、彼を見るおのれの目の青が灰色の中に滲んでいるのだろう。
そう、もう戻ることはできないのだと、聖剣を構え決然と進み出る。
彼を呼ぶおのれの声も、応える彼の言葉も、荒れ狂う風の咆哮にかき消された。

 

唸るような風の音で目が覚めた。
灰色の膜が張ったようにぼやけた視界を晴らすため、何度か瞬きを繰り返す。
空の大部分は今や暗い雲に覆われ、静かに瞬いていた星々は雲と雲の合間で消えそうに霞んでいる。あれほど明るかった月の姿はもはやどこにも見当たらないが、周囲に満ちる闇はうっすら白み始めている。夜明けはそう遠くないだろう。
不自然な覚醒を繰り返したためか額が重い。固い雪の上に横たえていた身体が軋む。そのくせ目だけはいやに冴えていて、再び眠ることはできそうにもなかった。
それでも、出発まで少しでも身体を休めよう。目を閉じようとした矢先、ふと間近でなにかが身じろぐ気配を感じ、アサレラは考えるよりも早く飛び起きた。
聖剣を構え、じっと目を凝らす。アサレラの目の前にいる影が揺らぎ、陽炎のごとく立ちのぼる。

「……フィロ?」

そこに佇んでいたのは、他でもないフィロだった。
フィロはなにも言わないままアサレラを見ている。聖剣を収めるのも忘れ、アサレラもフィロを見た。長い髪がゆるやかになびく先、美しい星空を重く閉ざす雲がある。
左手に携えた銀色の光に促されるように、そういえば、とアサレラは思惟を巡らせる。

――昨日、おれ、フィロになにか……。

おのれの内側を覆っていた薄い膜が破れ、意識がたちまち明瞭になった。

「フィ、フィロ! ごめん、おれ昨日」

「アサレラ」

おのれを呼ぶフィロの声は、星の瞬きのごとく静かだった。それなのに、アサレラの言い募ろうとするのをぴたりと遮ってしまう。
こちらを見つめるフィロから視線を背けたい気持ちが底のほうからあふれそうになるのを堪え、アサレラは審判を待つ罪人のような思いでフィロの目を窺い見た。

「…………悪かった。……昨日」

一瞬遅れてその言葉の意味が腹に落ちて、アサレラはひどく狼狽した。

「な、なんできみが謝るんだ。謝らなきゃいけないのは、おれのほうなのに」

そう、不用意な発言で相手を傷つけたのはアサレラのほうだ。

「……別にあれは、傷ついたわけじゃない」

「じゃあなんで」

アサレラが問えば、フィロはなぜか気まずそうに視線を逸らした。

「……あれはただ……少し驚いたのと、…………、……」

そのとき、不意に風が強く吹き付けてきた。ひゅう、という唸りがフィロの声にかぶさり、語尾をかき消してしまう。

「え? ……驚いたのと……?」

「だから、……いや、もういい」

「ごめん、風で聞こえなかったんだって」

「……おまえが気にすることほどのことじゃない」

どうあっても言い直すつもりはないらしい。

「まあ、きみがそう言うならいいけど」

「それより……もし、ローゼンハイムで、親父が……親父の様子がおかしくなったら」

アサレラははっとしてフィロを見た。
風が突然凪いで、ふたり分の呼吸が白くわだかまる。

「……そのときは、もし、そのときが来たら、……おまえが話を聞いてやってくれ」

それは、とアサレラが言いかけたそのとき、吹き付ける風が再び強くなる。
ふたりのあいだを漂っていた白い吐息がどこかへ流れて消えていく。それに背を押されるかのごとく、アサレラはつとめて明るく笑った。

「ああ。まかせてくれ」

「……頼む」

フィロも笑った。
やわらかく穏やかで、日が射せばたちまち溶けていく小さな氷にも似た、そんな笑顔だった。
アサレラはたまらず、フィロへ詰め寄るように一歩踏み出す。

「けどフィロ、きみも――」

「あれっ、ふたりとももう起きてんのか?」

突如割って入ってきたその声に、アサレラの肩がぎくりと跳ねた。

「……リューディア」

風で乱れる金髪を雑に二つに括りながら、リューディアがこちらへ駆け寄ってくる。

「今日は早えんだな? いつも最初に起きるのって、だいたいあたしかおっちゃんなのに」

「ああ、まあ、風が強かったから眠れなくて……」

決して嘘ではないが、なぜか後ろめたい気分になる。
視界の端でフィロが踵を返すのを捉え、アサレラはあ、とそちらを振り返った。

「……親父を起こしてくる」

「あっ、フィロ……」

アサレラの呼びかけに応えることなく、フィロはすたすたと歩いて行ってしまう。リューディアは気にした素振りもなく、じゃああたしはエルマー起こしてくるかな、あいつなかなか起きねえんだよな、と軽い足取りで去って行く。……予定していた出発時刻より幾分早いが、この風の強さではどうせ長くは眠っていられないだろうから、フィロとリューディアを引き留める理由はない。
ふと、左手に聖剣を握ったままだったことに気がついて、鞘へ戻す。
東へ目を転じれば、空を覆う暗雲の裾に朝の光が滲み始めていた。

 

支度を終えた一行が出立する頃には風はますます強まり、舞い上げられた雪が頬をしたたかに打つ。
アサレラは列をなす一行の最後尾につき、激しい風のために何度も外れるフードを再び目深にかぶり直した。
これほど風が強いのに、鈍色の雲は流れていく気配もない。日が射さないため辺りは薄暗く、吹き付ける風と雪で視界が悪い。今ごろローゼンハイムでは雪が降ってるのかな、と、アサレラは頭上にどんよりと垂れ込め続ける雲を見やった。
吹き上がる雪に遮られる視界の中、すぐ前を進むエルマーの背へ定期的に声をかけながら、アサレラの意識はさきがけを務めるロモロへ向いていた。
ローゼンハイム公国へ足を踏み入れる前に、ロモロと話をしたい。
ローゼンハイムへ行けばいつ魔王パトリスと遭遇するかわからないから、というのももちろんある。
だがそれ以上に、滅亡したローゼンハイム――故郷をロモロが目の当たりにするその前に話しておきたかった。アサレラに降りかかった出来事を、そのとき去来した情動を、今でも抱える感情を。
そう、思っていたのだが。

――なかなか機会がないな……。

思えば小休止のときも野営のときも、ロモロはなにくれとなく動き回っている。
現に今も、干肉を細く裂いて配ったり、フィロに寒くないかと気遣ったり、エルマーとともに地図を見て今後の方針や進度を決めたり、リューディアの突拍子もない質問に答えたり――つまり、ロモロがひとりきりになることなど、ほとんどないのである。
逆に言えばあのとき、あきらかに疲労した息子へ声をかけることもなく、自身の細剣をただ眺めていたのは、やはりおかしかったのだ。
どうにかロモロとふたりになる機会を得られないだろうか。
回された干肉を噛みしめながら、アサレラはエルマーとなにやら話し合っているロモロの背をやきもきした思いで見つめた。

 

あれほど激しかった風はすっかり収まり、今は時折思い出したように吹き付けて、外套の裾を翻すばかりだ。雲間から覗く空は青いが、そこから射し込む日射しは夕刻の翳りを帯び始めていた。
目深に被り直したフードの下から前方を窺い、アサレラはため息というには細い息を吐き出した。

――今日もロモロさんと話せないだろうな。たぶん明日も……。

あれから数日が経った今、アサレラはロモロとふたりで話す機会をいまだ得ていなかった。
この調子で進み続ければ、明日の昼過ぎにはローゼンハイムに到着するはずだと、昨晩エルマーが言っていた。
アサレラの個人的な、それも根拠のない思惑のために、一行の歩みを止めるわけにはいかない。ローゼンハイムへ着いたあと、頃合いを見てどうにか機会を作るしかない。そう思いはしても、アサレラの心はどこか重かった。

「あっ」

突如エルマーが声を上げる。
その声にアサレラがはっとするのと同時に、なにかが落ちる乾いた音が響き渡った。

「エルマー、どうした?」

魔物じゃないみたいだけど、と、アサレラは立ち尽くすエルマーの元へ駆け寄った。
エルマーは自身の足元へ視線を落とし、それから手元をあたふた動かし始めた。
アサレラが覗き込むと、エルマーの手の中には一本の革紐があり、足元には聖杖と細剣が転がっていた。

「す……すみません、少し待ってください、……っ」

どうやら腰に巻いていた革紐が擦り切れ、鞘を留める金具が外れてしまったようだ。
革紐を結ぼうと必死に奮闘しているエルマーを横目に、アサレラはエルマーの足元に落ちた聖杖と細剣を右手で拾い上げた。アサレラの手にはいくらか小ぶりで細いそれらは、ひと目でわかるほど上質な素材で作られている。エルマーのためにこしらえられた、聖剣レーゲングスとはまた違った意味で特別な武器なのだろう。
ややあって、エルマーは革紐を結ぶのを止め、長衣の内側へ捻じ込んだ。

「足を止めさせてごめんなさい。出発しましょう」

「いいのか?」

「……ええ。行きましょう」

どこか腑に落ちないながらも、アサレラは右手をエルマーへ差し出した。聖杖と細剣を両手で受け取るエルマーをなんとなしに眺めていたリューディアが、ふと不思議そうに首をかしげた。

「けどよ、ずっとそうやってると邪魔じゃねえか?」

「それは、そうですが……」

エルマーは困ったように眉を下げた。

「……ぼくのためにみんなの足を止めるわけにはいきませんから」

あ、とアサレラが思う前に、フィロとともに前方で待機していたロモロが足早にこちらへ近づいてきた。

「ここで野営の準備をしよう。これまで調子よく進んできたからな、少しくらい早くともかまわないだろう」

「……ですが、ぼくたちは一刻も早く……」

「ここからなら、明日の朝に出発して夕方になる前には山を下りられるはずだ。それに、無理をして進んだとして、野営に適した開けた場所がこの先にあるとも限らないからな」

「……そう、ですね……」

聖杖と細剣を胸に抱え、エルマーは困ったように視線を落とした。ロモロの言うことが正しいとわかってはいても、自身のために行程を乱す後ろめたさのようなものを拭いきれない、そういう逡巡だった。
フィロはそんなエルマーをロモロの肩越しに一瞥し、それから傍らのリューディアへ視線を向けた。

「おい、リューディア。……あれ、直してやれ」

突如指名されたリューディアと、ついでにアサレラも、驚いてフィロを見た。

「ん、あたし? 別にいいけどよ」

「えっ、ちょっと、フィロ、なにを……」

エルマーの困惑を黙殺し、フィロが大儀そうに右腕を挙げた。その指先が示す先には、人がひとりかふたり、凭れられるほどの大きさの岩があった。

「あの辺りでやれ。……オレは先に野営の準備をする。終わったら来い」

答えを待たずにフィロは踵を返し、すたすたと歩いて行った。ロモロが「すまないな」と口早に言い置き、やたら大股で遠ざかっていく息子の背を追いかける。リューディアはフィロが先ほど示した岩へ跳ねるような足取りで向かい、その途中で一度こちらへ振り返り、「どうしたんだよエルマー、早く来いよー!」と両手をぶんぶん振った。
いつのまにか日はだいぶ西へ傾いていたようで、流れる雲の縁に黄金の光を滲ませていた。

「……とりあえずそれ、リューディアに直してもらえ。いつまでもこうしてたってしょうがないだろ?」

戸惑うように立ち尽くしたままのエルマーを促しながらアサレラは、踵を巡らせて去って行ったフィロの姿を胸の内で反芻した。
――風になびく長い髪の隙間から覗くフィロの瞳が一瞬こちらを捉えたような気がしたのは、アサレラの思い違いだろうか。