第45話 青狼星

暖かな日射しの降り注ぐ中庭を、ただ眺めていた。
くすんだ草木が色づいて、花の蕾は咲きそうに膨らんでいる。
春の気配はすぐそこまで来ている。
だというのに、心の底は凍てついて、氷解の兆しは窺えない。

「――、ここに……たのか」

おのれを呼ぶ声に振り返った途端、視界に白い光があふれた。

「……になったら、ローゼ……ムに…………」

光は少しずつ削れ、やがて人型をかたどり、こちらへ近づいてくる。
頼むからそれ以上近づかないでくれ、胸の内でそう語りかけても、おのれの声が届くことはない。

「…………には……番に知らせ……くて」

光が迫る。
白く輝く腕がこちらへ伸びてくる。
逃げることも歩み寄ることもできない身体が、まばゆい光に包まれる。

「…………の別れだ」

光と熱で視界が揺らぐ。
呼吸がひどく苦しい。

「…………ゼでは、天の……と呼ば……光が…………」

とうとう耐えきれなくなり固く目を閉じても、光は瞼を突き抜けて目を灼かんばかりに激しさを増す。
固く閉ざした瞼の縁から、一粒の涙が零れ落ちた。

「約束だ、アサレラ。いつか二人で――」

 

弾かれたように目を開く。
途端、強烈な光がアサレラの目へ突き刺さった。

――あの光は……。

アサレラは反射的に額へ手をかざし、刺すように激しい光を遮る。何度か瞬きを繰り返すと次第に目が慣れてきて、青白い光が丸く収束する。
洗われたように澄んだ夜空の高い位置で、月が清らかな光を放っている。空一面を覆っていたあの厚い雲は、眠っているうちにどこかへ流れていったようだ。

視線だけを横へ向ける。傍らでこちらへ背を向けて眠るフィロの髪へ月明かりが降り注ぎ、安らかな呼吸に合わせて光がゆるやかに波打つ。その奥では、固めた雪を積み重ねて作った風よけの壁が月光を受け、闇の中できらめいている。
夜が明ければ山を下り、いよいよローゼンハイムの地へ足を踏み入れることになる。月の位置からして、眠り始めてさほど時間は経っていない。たとえ十分な睡眠を取れなくても、少しでも身体を休めておかなければ。

目を閉じる。
身体はひどく疲れているのに、頭の芯がいやに冴えている。瞼の裏で光が白く明滅し、閉ざしているはずの目がちかちかと痛む。重いなにかが胸を塞いで呼吸が苦しい。
それらから逃れるように、二度、三度と寝返りを打つ。疲弊した身体を横たえる地面は固く冷たい。分厚い外套やマントを幾重にも巻き付けているにもかかわらず冷気がせり上がってくる。それでも身を縮こめているうちに、少しずつ身体が温かくなってくる。しばらくそうしているうちに眠気が訪れ――。

「いっ……!」

背中に鋭い衝撃が走った。
おのれを薄く覆っていた眠りの膜を乱暴に破られ、アサレラの身体がびくりと跳ねる。
振り返って目を凝らすと、リューディアが外套から足を投げ出してぐっすりと眠っている。
アサレラはそっと身を起こす。周囲を見渡すと、仲間たちは変わらず寝入っている。
おのれの背を蹴飛ばしたリューディアの足に外套をかけ直してやってから、静かにその場を後にした。

 

野営地から少し離れた、けれど声を張り上げれば聞こえる程度には近い場所で立ち止まり、アサレラは空を見上げた。
夜空を煌々と照らす月は高く澄み切って、星々のさやかな光は霞んで見えない。でも、と、アサレラは目を眇めた。たとえ地上から見えなくても、星たちは変わらず瞬いているのだろう。
と、背後に人の気配を感じ、アサレラは振り返った。

「アサレラ」

――アサレラ、ここにいたのか。

突如、視界に白い砂嵐が走った。
目の前でおのれを呼ぶ誰かの声と、耳の奥でおのれを呼ぶ誰かの声が重なって、頭の内側で跳ね返り、近く遠く反響する。
こめかみが熱く脈打つ。
激しい目眩に立っていられず膝をついた地面が歪み、どこまでも深く底へ沈んでいく。

アサレラ。

おのれの名を呼びながらこちらへ近づいてくる人影がぶれて、溶けて、その輪郭が混ざり合う。
指先が痺れる。
頭が割れるように痛い。
額から流れた汗が目にかかる。

アサレラ。

おれをそう呼ぶのは――誰だ?

「……アサレラ? アサレラ!」

アサレラははっと我に返った。
膝をつき、こちらへ近づいてくるその人影の輪郭が、闇の中に青白く浮かび上がる。

「具合が悪いのですか、アサレラ」

「…………エルマー?」

その名を呼んだ途端、視界を覆う砂嵐が晴れた。

「食事中もなんだか様子がおかしかったですよ。……本当にどうしたのです?」

前髪の隙間から心配そうにこちらをのぞき込む金色の瞳を見返す。頭痛も目眩もアサレラを苛んでいたなにもかもが波の引くように消えた。ただ鼓動だけが、名残をとどめて早鐘を打ち続けている。

「な……なんでもない。少し疲れてる……のかな」

立ち上がりながら、外套の前をかき合わせる素振りで拍動する胸を押さえる。もの言いたげにこちらを見るエルマーがなにか言うよりも早く、アサレラはとっさに思いついたことを口にした。

「きみも眠れないのか?」

エルマーはアサレラの隣に並び、空を見上げる。話を逸らしたかっただけで取り立てて答えを欲していたわけではなかったアサレラも、つられるように視線を上げた。
月の光はいつのまにか翳り、瞬く無数の星々は手を伸ばせば届きそうなほどに近い。その中にあっても、青狼星はひときわ強く輝いている。

「フィロは」

その声にアサレラの意識が天上から地上へ戻る。

「あなたになにを話したのですか」

尋ねるエルマーの横顔に、アサレラの心臓が跳ねる。

「…………ごめんなさい、詮索するつもりはないのです。でも……あなたもフィロも、様子がおかしかったものですから、つい気になってしまって」

矢のように降り注ぐ西日の中、フィロはどんな思いで過去を明かしたのか。エルマーやリューディアに話すかどうかはおまえの判断にまかせるというフィロの言葉を信じていいのか。仮にフィロが心からああ言っていたとして、ロモロはどうなのか。

「……フィロは……」

わからない。もたらされた真実をエルマーに共有して、果たしてアサレラの心は安寧を得られるのか。あるいは安らぎをひととき得たとして、一人で抱えるには重い荷物の一片を他者へ担わせるその行為は、本当に正しいのか。
エルマーはしおらしい素振りを見せてはいるが、内心知りたがっていることは明白だった。だからこそこうして、野営地を抜け出したアサレラを追ってきたのだろう。
わからない。アサレラにはなにひとつ。

「…………フィロは、いやフィロとロモロさんは、……ローゼンハイムの出身だって」

白い吐息がたなびいて、その向こうでエルマーが目を瞠ったのを見たアサレラの胸はかえって重くなった。
やはり胸に秘めておくべきだった。吐き出した息が冷えた夜気へ白く霧散しても、一度相手へ届いてしまった言葉が消えることはない。

「そうでしたか。あの二人が……」

こちらへ向けられたエルマーの目をまともに見返すことができず、アサレラは視線を足元へ落とした。雪のためにじっとりと湿ったブーツの爪先が、月の光を弾いて銀色に鈍く輝いて見えた。

「…………実は、もしかしたらそうかもしれない……と、うすうす思っていました」

思いもよらないその言葉にアサレラが顔を上げれば、エルマーはもうこちらを見てはいなかった。

「聖王アサレラが魔王パトリスを退けたのち、公都エリーゼに戻ったヴァーレンティーン公子は、剣士アウレーリエを妻に迎えました」

ヴァーレンティーン、アウレーリエ。アサレラはその名を胸の中で繰り返した。

「確か、聖王アサレラの仲間……だっけ」

「ええ。アウレーリエはローゼンハイム人でしたが、魔術はまったく使えなかったそうです。その代わり、細剣による刺突と受け流しを得意とする剣技には秀でていた、と」

細剣の描く鋭い軌跡、その余波で翻る白いマント。アサレラの脳裏になお焼き付いているあの背中が今、唐突に脳裏へよみがえった。

「今はアウレーリエ流と呼ばれるその剣術は、アーダルベルト家……ローゼンハイムを統治する公王家と、公王家に仕える白薔薇騎士団に代々伝えられています」

エルマーはおのれの左腰を手の甲で示す。細身の剣を収めた鞘が聖杖とぶつかり、乾いた金属音がこだまする。

「わがフェールメール家と聖騎士団に伝わる剣術は槍術を基本としたもので、細剣という共通点はあってもアウレーリエ流とは少し異なります。ぼくの記憶が正しければ、……ロモロの剣術は、以前見せていただいたアウレーリエ流剣術……ヒルダ様の剣術とよく似ています」

淀みなく語るエルマーの言葉が、水の流れるようにアサレラの内へ浸透する。

「じゃあ、ロモロさんは……ローゼンハイムの騎士、だったのかな」

そういえば、と、アサレラは細い記憶の糸を慎重に手繰り寄せる。

「ロモロさんの剣はすごい、おれみたいなのとは全然違うって言ったら、昔取った杵柄だ……って言ってたっけ」

兵士というよりはどこかの騎士のようだ、とひそかに思いもしたものだ。

「ぼくの推測も同じです。ギュンター様の弟君は二十年ほど前に若くして亡くなられたそうですし、ヒルダ様にも公妃ブリュンヒルデ様にもご兄弟はいらっしゃいませんでした」

ではローゼンハイム公国を継ぐ公王家――アーダルベルト家の血は永遠に途絶えたということか。

「おそらく、ロモロとフィロは王家により追放されたのでしょう。ヒルダ様は魔術が不得手でしたから、彼らが騎士の家系であるならば、主君の娘の王位を脅かすことは決して許されないでしょうね」

それらを頭の中で整理し、並べ替え、つまり、とアサレラは結論を出す。

「……ローゼンハイムは魔術士の国だから、魔力のない王家の娘よりも、強い魔力を持つ騎士の息子のほうが王位継承者にふさわしいと思われる……ってことか?」

エルマーの沈黙を是と捉えたアサレラの内へ、にわかに苛立ちが募った。

「ずいぶん勝手なんだな。あいつだって、好きで魔力を持って生まれたわけじゃないのに」

「…………ええ。ぼくも、そう思います」

ですが、と一歩こちらへ近づくエルマーの瞳に、いくつものきらめきの中にあっても翳らない青狼星の青い光が宿る。

「ぼくたちの推測が真実であれば、ギュンター様の行いは非難されるべきものです。でも……、ヒルダ様の行く末を父として心配しておられた。その心まで否定したくはありません」

「父として?」

頭の芯がかっと熱くなり、思考よりも早く言葉が出る。

「誰かを愛するためなら、他の誰かを傷つけてもいい。きみはそう思ってるのか?」

「そ、そうではありません。ただ……」

心に穿たれた穴から強い風が吹き付けて、底に降り積もったものが舞い上がって渦を巻く。

「だいたい、父親としてなんて、なんで言えるんだ。ただローゼンハイムのためにフィロたちを追放しただけかもしれないだろ」

「……あなたは、ギュンター様のことを知らないから」

「アサレラは弟を裏切って、パトリスは兄に復讐しようとしている。そのことだって知らなかったきみが、他国の王のなにを知ってるって言うんだ?」

「アサレラ……!」

「おれだって、できることなら」

「あなたはっ……、ぼくや父を恨んでいるのでしょう!?」

思いがけないその言葉に、渦巻く思考がぴたりと止まった。
アサレラは開いたままの唇を閉ざすのも忘れ、こちらを見据える瞳の揺れるさまを凝視した。

「わかっています! あなたがぼくを恨むのも仕方のないことだと。でもアサレラ、ぼくはっ……」

「ちょ、ちょっと待て! なんでそうなる!?」

ようやく我に返ったアサレラは、明後日の方向へ進み始めた話を止めるべくエルマーの肩を左手で掴んだ。
エルマーは一瞬、ぎくりと肩を強張らせたのち、顔をうつむかせ、胸元で固く指を組んだ。

「お父さま……父が、あんなことをしなければ……、母は記憶を取り戻して、あなたがたのところへ帰れたかもしれなかった……」

祈るように。あるいは許しを乞うように。

「別におれは、きみやきみの父親のことは恨んでない」

激しい感情のつけで痛み始めた額を空いた右手で押さえ、アサレラは重いため息をこぼした。

「エルマー。アデリス……いや、アシュレイ王妃はいつ死んだ?」

「……七年前。魔王パトリスがウルティアの北西にある町トラパニと、ローゼンハイムを滅ぼしたあの日」

固く組んだ指先に力を込めたためか、エルマーの指先が白くなる。

「七年前にはもう、おれはもうセイレムを出ていた。仮にあいつがセイレムへ戻ってたところでおれにはなんの関係もない」

急き立てられるように言葉を重ねれば、張り詰めた空気に白い吐息が流れていく。

「……もしあいつがセイレムへ戻ってて、もしセイレムが滅ぼされなかったら、きっとおれはあいつを殺してた。……もしそうだったら、エルマー、きみは」

エルマーの濡れた睫毛がかすかに震えて、伏せられた目がそっとこちらを見上げる。

「きみは……、おれを、……恨んだか?」

左手の中でなにかが強張ったのを感じ、アサレラはようやく、おのれがエルマーの肩を掴んだままであることに気がついた。

「……まあ、仮定に仮定を重ねたって、意味なんてない」

冷え切った身体の中で、思い出したように引っ込めた左手だけがいやに温かい。

「お母さまはあなたを……、いえ、あなたとあなたのお父さまを……あんなことがなければ、きっと、ずっと……」

わかってる、と肯定することも、いや違う、と否定もすることもできなかった。
頭が重い。呼吸のたびにこめかみが割れそうに脈打つ。収まったはずの感情が胃の底で再びざわつき始めるのを感じ、アサレラは右手で腹を押さえた。

「…………あの星。名前を知っていますか」

エルマーの指先が示す星を仰ぎ見る。
名も知らない無数のきらめきの中にあっても、それを消し去るように月が明るく輝いても、翳ることのない青い光を放つ星。

「青狼星だろ?」

「あの星にはいくつも名前があります。今、正式名としてもっとも知られているのは、聖標星という名です」

「聖標……?」

聞き覚えのないその言葉に、アサレラは目を瞬かせた。

「早くに夫を失い、悲しみに暮れるエルフリーデを慰めるため、オバドヤ――アスタナレフの子孫でありミカヤの祖先である神官が名付けたのです。聖王の魂は天へ還り、地上に生きる者たちを導いてくださるのだと。それ以来、あの星は聖標星と呼ばれるようになったそうです」

聖王が示す道標の星、だから聖標星。なるほど理にかなっている。

「その、たくさんある名前の中で、残ってるのは聖標星だけなのか? 他の名前は……」

「……聖標星という名が広まって五百年。古い名で呼んでいた人々ももはや生きてはいません。かつての名が残るとすれば、書物か口伝……もしくは歌、でしょうね」

ではアサレラは、青狼星という名をどこで知ったのだろう。かつて王都オールバニーの路地裏で剣を抱いて浅い眠りに就いていた頃、酔漢の喧噪にまぎれて漏れ聞こえる吟遊詩人の歌が頭の片隅に残っていたのだろうか。

「エルマー、聞いたことあるか? 青狼星って名前」

一瞬、エルマーの瞳が惑うように揺れた――ように見えた。

「…………ありますよ。一度だけ、ですが」

「どこで?」

「あの星は昔、青狼星と呼ばれていたのだと。……お母さまが以前、そうおっしゃったことがあります」

稲妻の走るような衝撃が全身を撃ち抜く。

「ぼくや父を含め、城の者は誰一人として青狼星なんて名前は聞いたことがなかった。だからぼくは、お母さまの失った記憶を取り戻す手がかりになるのではないかと思って、イーリス王国時代の古い文献を探しては解読し、また探して……」

呼吸と鼓動が同時に止まった感覚に陥った。
しかし乱れる呼吸は白い霧となって目の前でたなびいては消えていき、逸る心臓は肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打っている。

「結局、青狼星という記述は見つけられないまま、父はイーリス時代の書物を収めた書庫を封じ、自身が許可した人物でなければ立ち入れないよう措置を講じました。……自分の意志を貫くには、あのときのぼくはあまりにも幼かった。……いえ、ぼくも父と同じように、お母さまを失うのを恐れていたのかもしれません」

そのとき、ひたとこちらを見るエルマーの瞳は、もはや少しも揺らいではいなかった。

「アサレラ、あなたは、青狼星という名前をどこで知ったのですか?」

アサレラは答えなかった――いや、答えられなかった。
それは、冬の到来を告げるあの青い星の名を、いつどこで聞いたのかも覚えていなかったからではない。

「…………もう戻りましょうか。夜明けには出立しなければなりませんものね」

アサレラの返事を待たず、エルマーは踵を返した。
軋む足音と遠ざかる小さな背中を追うように、アサレラも蹌踉と歩き始める。
踏みしめたブーツの先が凍えてじんじんと痛む。
風はなく、散らばる星々を包む空はどこまでも美しく静かだった。だというのに、アサレラの内には一度凪いだはずの風が再び激しく吹き付けていた。