パレルモを発ち、聖王都ドナウへ向かう道すがら、アサレラはロモロの背中に問いかけた。
「ロモロさん、よかったんですか?」
先頭を行くロモロが肩越しに振り返った。
「なんのことかな、アサレラ殿」
空一面を覆う雲の奥に、太陽の気配がわずかにうかがえる。
「……結局ロモロさん、エステバン杯に出場しなかったじゃないですか」
魔人シルフの騒動によりエステバン杯は一時的に中断されたものの、明日から再開される手筈を整えているはずだ。イスベルに出場を要請――というより強要されたロモロが、こうしてドナウへ向かっていて良いのだろうか。
「イスベル殿にはきちんと断ってきたから問題ない。それにキミが聖剣を継いだ以上、早くドナウへ行ったほうがいいだろう?」
「それはまあ……そうですね」
得心して頷き、アサレラは腰に下げた聖剣レーゲングスの柄に触れた。聖王アサレラが魔王パトリスを退けた女神の聖遺物は今、アサレラの手の中にある。それはつまり、イーリス大陸の未来がアサレラの手の中にあるということだ。
「アサレラ殿こそ、もう少しパレルモにとどまりたかったのではないか?」
「え、おれですか? おれは別に……?」
まったく思い当たる節がなかった。料理や酒は確かに美味だが、アサレラにそういったこだわりはない。闘技場に出場したいとも思わない。粗暴であけすけなウルティア人とは気質が合いそうにもない。
首をかしげるアサレラに微笑一つを残し、ロモロは再び先を行き始めた。
ロモロは昨夜の名残を微塵も感じさせない、アサレラにも覚えのある穏やかな口ぶりだった。エルマー王子への固い態度と、ぽつりとこぼしたあの言葉。あれからずっと気になってはいたものの、一夜明けた今になってそのことをぶり返して尋ねるのもなんだか気が引ける。
――エルマー王子は……王家の生まれであることを、誇りに思っていたのだろうな。
あれはどういう意味だっただろうか。その場で聞き返せればよかったものの、ロモロはすぐに寝入ってしまい、いくら呼びかけても起きることはなかった。結局、宿屋の主人とともにロモロを部屋へ運び入れたのだった。
足下ががくんと揺れて、アサレラははっとする。
と同時に手首を掴まれる。夏の花にも似た薄紫色が視界の端で揺れ、アサレラはそちらへ目を向けた。
「あ……、すまない、フィロ」
ぼんやりしていたせいで勾配に足を取られたのだと、アサレラはそのときやっと気がついた。アサレラの腕を掴んだフィロはなにも言わず手を離し、さっさと歩いて行こうとする。
「そうだ、フィロ」
それを呼び止め、アサレラはフィロのそばへ寄った。フィロは蒼い影の落ちる緑色の目を、用件はなんだ、と言いたげにちらりとアサレラへ向けた。
「ロモロさんって、王族となにか……あったりしたのか?」
アサレラが潜めた声で問うと、フィロの足がぴたりと止まる。物憂げな影を一瞬で消し飛ばすような鋭い光がその双眸へ宿った。
「……………………それを知ってどうする」
「別にどうもしないけど……少し、気になっただけだ」
もしアサレラが不実な企みを腹の底へ潜めていれば、フィロの眼差しに射貫かれていただろう。アサレラにそういうつもりはもちろんないものの、なんと言ったらいいものか、と言葉を探す。
「ロモロさんは……誰にでも親切みたいなのに、エルマー王子にだけは違ったから。それに、身分で人間を判断するような人じゃないと思って」
夕暮れが迫り日差しがやわらぐように、フィロの目の光が翳りを帯びる。
「…………親父は……昔の仕打ちを忘れていなかった。それだけだ」
思いがけない言葉にアサレラの胸腔が妙な軋み方をした。
「仕打ち? それってどういう……」
「知りたいのか」
「い、いや……そういうわけじゃない……こともないけど」
温和なロモロの背負う過去がまったく気にならないと言えば嘘になる。だが興味本位で詮索すべきことではない、とアサレラはかぶりを振った。
誰だって、おのれの内を不用意に掘り返されたくはないだろう。それが忌まわしい過去の傷跡であれば、なおさらだ。
「…………旧怨か。……親父もくだらないことをいつまでも考えるものだ」
ぽつりと落ちる言葉に心臓が跳ね上がる。
「じゃあきみは……誰かを恨むべきじゃないと、そう思ってるのか?」
「とっくに終わったことをいつまでも考えたとして、どうなるわけでもない」
確かにフィロの言うことに間違いはなく、アサレラがどれほどの恨みを募らせたとしても、ロビンやコートニーが生き返るわけでもなく、行方をくらませたアデリスが目の前に現れるわけでもない。たった一つの願う力が世界を変えるなら、魔王などとっくに消え去っているはずだし、そもそもアサレラ自身だって存在していないだろう。
それでも、と、内側から叩くように拍動する胸に急き立てられるようにアサレラは口を開いた。
「けど……じゃあ、どうしても許せないことがあったら、そいつを恨まずにはいられなかったら……どうすればいい?」
フィロが、すっと目を眇める。青色がかった緑の目がアサレラを見下ろす。
「フィロ、アサレラ殿! どうかしたのか?」
なかなか追いついてこないのを不思議に思ったのだろう、ロモロがこちらへ呼びかけてきて、アサレラとフィロはほぼ同時に視線をそちらへ向けた。二人して立ち止まり続けていたせいで、いつのまにかずいぶんと距離が空いてしまっている。
「親父にこの話はするな」
「あ、ああ……」
この話は終わりだ、と告げるように歩き始めるフィロの背を、薄紫色の髪がゆるやかに流れる。
山上から吹き下ろす風は冷たい。覆うもののなくなった前髪が心もとなく揺れて、視界を銀色がかすめる。
すぐにフィロの後を追いかけようとしたアサレラは、眼下で黒い点の群れが東の方向へ一斉に動いているのを見て動きを止めた。
「あ」
その声につられるように、ロモロもフィロもアサレラの視線を辿った。
「あれはマドンネンブラウの騎馬隊か?」
「たぶん……」
色づいた地平を駛走する馬の群れは、あっというまにその姿を消した。その中には当然マドンネンブラウの王子たるエルマーもいるだろう。
「エルマー王子の青魔術には助けられたな」
アサレラは視線をロモロへ向けた。
「青魔術?」
「癒やしの魔術だ。攻撃のための魔術は赤魔術という」
「どっちも同じ魔術なんですね」
こちらを振り返ったロモロがかすかに目を瞠った。
「…………ああ。その通りだ」
エルマーとはじめて出会ったときのことを思い返す。オールバニーで装備を調えるアサレラの手を、エルマーが引いた。互いの素性を知らずに交わした短い会話の中でエルマーはアサレラの無事を祈り、アサレラは大人げなく声を荒げた。
あまり思い出したくなかったことを再び記憶の底へ沈めようとして、アサレラはふと思う。
確かあのとき、エルマーはアサレラを自分自身の母親と間違えたのだった。
もしかしておれは女みたいな顔なのだろうか?
そういえば、ミーシャも十数年ものあいだ思い違いをしていたようだった。幼少の頃ならともかく再会してからも、つい昨日まで疑うことはなかったようだ。そもそもアサレラの容貌は怨念の相手である母に由来しているのだから、少なくとも男性的な見た目ではないだろう。
二重の意味でうれしくない事実に気づいてから、いやそれよりも、とアサレラは思惟を巡らせる。
エルマーの母親ということは、つまりマドンネンブラウの王妃である。
「ロ……いや、フィロ!」
呼びかけようとした言葉をすぐさま言い直し、アサレラはフィロの横へ並んだ。
「きみはマドンネンブラウの王妃を見たことあるか?」
「…………そんなことは親父に訊け」
「きみが言ったんだろ? ロモロさんに王族の話はするなって」
「…………おまえ……オレの言いたいことがわかってなかったのか」
「いや。わかってるさ」
重なり合うように空を覆う雲が流れていく。雲と雲の隙間から光が差し込み、怪訝な表情をするフィロの白い頬がすべらかに光る。
わかってるさ。アサレラは今度は胸中で呟いた。
アサレラは復讐に身を窶すことはできない。
無意識のうちに触れていた聖剣の柄から手を離し、フィロの顔をまじまじと見つめる。
おそらくロモロも、積年の恨みを晴らすためだけに生きることはできなかったはずだ。
それにしても、とアサレラは嘆息した。
「きみは女には見えないよな……」
「…………いきなり、なんの話だ」
花のような色をした長い髪、整った顔立ち、白い肌、細い体躯。これだけ揃っていてもフィロは間違いなく男に見える。
「そういえば、昔から女の子に間違われたことはなかったな」
アサレラたちよりも少し先を進んでいたはずのロモロが、いつのまにかフィロの隣にいた。
「見た目は妻によく似ているんだがな」
「そうなんですか……あ、そうだ。ロモロさんは、マドンネンブラウの王妃を見たことありますか?」
「いや、ないな。王妃は何年か前に亡くなっているはずだ。病弱だったせいで民の前に姿を見せることもほとんどなかったらしい」
「そう……だったんですか?」
ではあのときエルマーは、死んでいるはずの母親の面影をアサレラに重ねたのか。
「確か、名前は……」
女の啜り泣くような声がロモロの語尾へ被さる。
「な……なんだ、この声は?」
背筋を不穏な予感が駆け上がり、とっさにアサレラは剣を構えた。
「伏せろ!」
頭上にいくつもの鳥影が射すのと、ロモロが声を張り上げるのはほぼ同時だった。
目も開けられないほどの暴風が唸りを上げ、嗄れていながら妙に脳天から絞り出したような声が耳をつんざく。
身を低くしながら左手に力を込め、アサレラはなんとか瞼を押し上げる。
老婆の顔と胴、そして鳥の翼に鉤爪を持つ魔物の群れが、頭上高くこちらを狙いすましている。
「あれはハルピュイアだ! 耳障りな歌で弱らせた人間を生きたまま貪る魔物だ!」
「ど……どうすれば!?」
「剣では届かない、なにか飛び道具があれば……!」
聖剣を斜めにかざしても奇跡はそうやすやすとは起こらず、白い刀身がアサレラの強張った顔を映すばかりだ。
手頃な石かなにか落ちていないものか、と足下を見渡すアサレラの目の前を、臙脂色が横切る。
視線を上げる。フィロがアサレラの目の前に立っていた。
「フィロ!? いったいなにを……」
風にあおられた炎のようにフィロの長衣の裾がはためく。
フィロはこちらへ背中を向けたまま手のひらを魔物へ向けているようだ。
「フィロ!」
焦燥もあらわにロモロがフィロの腕を取り、その勢いでアサレラへ振り向く。
「アサレラ殿、撤退しよう!」
「え……でも、どこへ!?」
マドンネンブラウ方面へ急行するには距離がありすぎる。かといってパレルモに戻るには勾配を登っていかなくてはならない。
「ロモロさん! あいつらは人間を食うんですよね。だったらそのために地上に降りてくるはずだ!」
「耐えて反撃に転じるというのか!? 無茶だ! 下手をしたら生きながら貪られるんだぞ!」
「けど、それは逃げるにしたって同じことです!」
こうしているあいだにもハルピュイアはけたたましい啼声をあげ、こちらが疲れ切るのを待ち望んでいる。
退くか、耐えるか。どちらにしろ激しい消耗は避けられないだろう。
ならば、とアサレラは剣を構え直した。
「おれが奴らを殺します! 二人は先に逃げてください!」
「しかしアサレラ殿!」
「おれには聖剣の加護がある。ちょっとかじられたぐらいじゃ死にません! きっと後で追いつきます!」
アサレラの言葉を後押しするように左手の聖痕が熱を帯びる。
これまで何度も死にそうになりながらも、アサレラはこうして生き延びた。今さら魔物程度で死にはしない。
アサレラがフィロの前に進み出ようとした、そのとき。
「おめえら、動くなよ!」
突如背後から響いた少女の声とともに、風の切る音が二度、三度と耳をかすめた。
風がぴたりと止む。
喉を絞るような唸り声を上げ、ハルピュイアの群れがふらふらと落ちてくる。
すかさずロモロが踏み込み、その喉を剣で貫いていく。アサレラも続いてとどめを刺していった。
ハルピュイアたちの呻きはだんだんと小さくなり、やがて完全に途絶え、辺りは元の静けさを取り戻した。
「た、助かった……のか」
安堵の実感とともに緊張がほどけていく。
フィロの無事を確認していたロモロを横目にアサレラは背後を振り返った。さきほどの声の主と、魔物を攻撃したものの正体を確かめるために。
「よお、おめえたち、あぶねえとこだったな」
二つに結った金髪を揺らし、小柄な少女が軽やかな足取りでこちらへ近づいてくる。その右脇に抱える弓は魔物が失墜した理由を明確に物語っている。
アサレラは――おそらくはロモロもフィロも――少女の顔に見覚えがあった。
「す、すまない、助かった……。確か……リューディアだったよな?」
リューディア・シャウエルテ。二日前に王都パレルモで出会った戦士だ。
「おう。こいつも一応持って来といてよかったぜ。あんま得意じゃないんだけどさ」
リューディアが弓を軽く持ち上げる。他のウルティア戦士たちが携えていたものとは異なる、木の皮や繊維でできた野性味溢れる弓だ。
「…………得意じゃないようには……見えなかったが……」
「そりゃあ、師匠に叩き込まれたから少しは使えるけどさ。おまえは弓の扱いがなってない! ってよく怒鳴られたぜ」
少しどころではない、とアサレラは折り重なるハルピュイアの死骸に目を向けた。
リューディアの放った矢は正確に魔物の翼を撃ち抜いた。それも一匹ではなく数匹の。
「助けてくれてありがとう。ところで……キミは魔人の攻撃を受けてなかったか? 怪我は平気なのか」
細剣を下げたまま、ロモロが脇から口を挟む。そういえば昨日、リューディアは魔人の魔術により吹き飛ばされていたはずだ。
「あれぐらい、たいしたことねえさ。師匠の修行のほうがよっぽど効いたぜ」
魔物の体液を払うロモロの剣の軌跡を何気なく追ったアサレラは、その根元に不自然な窪みを見つけた。
「あれ、ロモロさん、その剣……」
まるでなにかを削り取ったような跡をアサレラが指したとき、鋭く突き刺すような視線を背中に感じた。
余計なことを言うな。
ぎこちなく振り返れば、フィロの鋭い眼光が雄弁にそう語っている。
「剣がどうかしたのか?」
そうとは知らないロモロが先を促す。フィロの視線が発言を妨げる。
「こいつの羽根で新しい矢、作れっかな……でもあんま丈夫そうじゃねえな」
かがみ込んでなにやらつぶやいているリューディアは、こちらに一切の関心を払っていないようだ。
どうするべきか。アサレラは頭を回転させた。
「そ、その……、その……剣! 剣をおれに教えてくれませんか!?」
とっさに思いついた言葉を口走ってから、これはよい考えだ、と思考が追いつく。
「おれ、誰かに戦い方を教わったことがないんで、その……ロモロさんがよかったら」
ロモロは驚いたように瞠目したが、やがて穏やかな微笑を浮かべた。
「わたしは人に教えたことがないが……それでもよければ」
「は……はい! お願いします!」
おのれを芯から奮い立たせるような力が奥底から溢れ、皮膚の表面が粟立つ。
いったいどこから来たのか、次から次から湧き上がる感情に戸惑っていると、いつのまにかすぐそばに立っているフィロが、じっとこちらを凝視していることに気がついた。
「な……なんだ?」
「………………。まあいい。せいぜい剣の修行に励め」
「あ、ああ……」
長い髪を翻してロモロのもとへ戻っていくフィロの背中を見て、アサレラはふと思う。
もしかしてフィロは応援してくれていたのだろうか?
「…………まさかな」
ありえない考えを追いやるように、アサレラは右手で額を拭った。