第24話 聖王国へ

リューディアもマドンネンブラウへ向かう道中であったらしく、一行はともに国境へと向かうこととなった。

「聖者さんたちがいてくれてよかったぜ」

軽い足取りで先頭を進むリューディアは、当初は商人の護衛として国境越えを目指していたらしい。ところが別の戦士とはち合わせ、護衛の任を急遽解かれたのだという。
確かに見るからに子どもで小柄なリューディアよりも、見た目にも屈強な戦士のほうが護衛としては適しているのかもしれない。
けど、とアサレラは思う。あの戦いを目の当たりにすれば、リューディアが護衛に向かないなどとは思わないはずだ、と。

「いや、こっちこそ助かった」

偶然リューディアが通りかからなければ、今頃どうなっていただろう。そう思えば胸の底を薄ら寒い風が吹く。

「リューディア殿は、通行許可証を持っていないのだろう。どうやって国境を越えるつもりだったんだ?」
「そりゃまあ、とりあえず近くまで行けばなるようになるかな、って」
「ずいぶん適当だな……」

楽天的な物言いに呆れると、リューディアのぱっちりとした目がアサレラへ向く。その濃紫色は、ウルティアで飲んだ葡萄酒の色に似ている。

「起きてもねえこと考えても仕方ねえしな」

それに実際なんとかなったし、と屈託なく笑うリューディアが、過ぎたことを考えてもどうしようもない、と言い切るフィロの横顔とふいに重なる。
アサレラは背後のフィロをちらりと振り返った。

「フィロ、きみもさっき似たようなこと言ったよな」
「…………ガキと一緒にするな」

そうしているうちに国境へ差し掛かった。検問所でアサレラがトラヴィス王の親書を取り出そうとするのを、白銀の鎧を纏う年若い騎士が制する。

「殿下から言付かっております。聖者殿とお連れの方がいらっしゃると」
「王子が? でも、おれが聖……あ、いや、それだってわかるんですか?」
「もちろんです。その輝かしい銀色の髪、腰に下げた聖剣を見れば一目瞭然ではありませんか」

なにを当然のことを、と言いたげに騎士が笑い、アサレラは決まりの悪さをごまかすように前髪を摘まんだ。
ふと、騎士が訝しむ視線をリューディアへ向ける。

「そちらの方は? お連れの方は男性がお二人と聞いておりますが……」
「途中で合流しました」

まったくの嘘ではない。

「なるほど、ウルティア人の戦士を護衛に雇われたのですね」

騎士は得心したように頷き、それから眉をひそめた。

「聖者殿、道中どうかお気をつけください。恥ずかしながら、国内の治安は万全とは言えないのが現状です」
「魔物が出るのは仕方ねえよ」

身を乗り出したリューディアが、その勢いでアサレラの背を叩いた。
痛みの衝撃で一瞬、息が止まる。

「魔王を倒せば魔物も消えるんだから、もうちょっとの辛抱だ。そのために聖者さんが来たんだからよ。そうだろ?」
「あ、ああ……そうだな…………きみは、もう少し力の加減ができないのか……?」

乱れる呼吸の合間に非難の目を向ければ、リューディアはさほど悪びれた様子もなく、ごめんごめん、と両手を合わせた。

「その……魔物だけでなく、盗賊などの被害も増えているのです」

背骨に滲みる痛みに背を丸めるアサレラの背後で、ロモロがため息を漏らした。

「なるほど。魔物に対処するためには人員を裂かなければならない。その混乱に乗じて賊が横行しているのだな」
「おっしゃる通りです」

おのれの不明を恥じるように騎士は身を縮め、それから女神の加護を祈る聖句を唱え、アサレラたちを送り出した。
そうして越境手続きは終了し、一行はいよいよマドンネンブラウ聖王国の地へ足を踏み入れた。

「ここがマドンネンブラウか……」

空を覆う雲のわずかな隙間から差し込む西日が、薄闇に包まれた大地へ燃えるような光の点を落としている。
冷え冷えとした風が北から吹き抜ける。その冷たさにアサレラは身を震わせた。

「なんだろう、この匂い」
「潮の香りだろう。港が近いからな」
「あ、これ、海の匂いなんですね」

パレルモにいたときは気にもしていなかった濃い潮の匂いが、風に乗ってアサレラの鼻腔をくすぐる。
少し歩き出したところで、ふいにリューディアが北西を指さした。

「じゃ、あたしはこっちだから」

アサレラは足を止め、リューディアの指先を見た。聖王都ドナウは北東にあるので、方角が異なる。

「きみもドナウへ行くんじゃないのか?」

リューディアが首をかしげ、二つ結びの髪が肩先で揺れる。

「いや、ニーチェだ。あたしローゼンハイムに行くからさ」
「ああ、…………ローゼンハイム!?」

なんでもないことのように言うリューディアの言葉の意味が、遅れてアサレラの内側へ届き、思わず声をあげてしまう。

「おめえたちは聖王都に行くんだよな? じゃあな!」

アサレラが呼び止める間もなく、リューディアは手を振って駆けていった。

「あいつ……なにしにローゼンハイムに行くんだろう……」

魔王の手で滅亡した北の大地へ向かうという少女の小さな背は、だんだん見えなくなっていった。
かと思えばすぐに戻ってきた。

「そうだ聖者さん、おめえに預かってきたものがあったんだ」

リューディアは思い出したように懐を探り始めた。

「…………おれに? 誰からだ?」
「えーっと、緑の髪の……ミーシャだっけ。あの神官の姉ちゃん」

ミーシャの名とともにリューディアが取り出したのは、折りたたまれた一枚の手紙だった。

「…………なぜ、ミーシャがおれに?」

差し出されたその手紙を、アサレラはまじまじと見つめる。

「わかんねえけど、頼まれたからな」

リューディアはアサレラへ手紙をぐいと押しつける。アサレラは慌てて手を出した。

「じゃあな、みんな! 聖者さん、魔王を倒してくれよ!」

大きく手を振り、リューディアは去って行った。
遠ざかっていくその影は小さくなり、今度こそ見えなくなった。

「アサレラ殿、わたしたちも行こう。日が暮れる前に」

ロモロの声で振り向けば、秋風に髪やマントをなびかせる二人が、アサレラを待っている。

一瞬、手紙へ視線を落とす。それを胴衣の内側へ収め、アサレラは歩き出した。

 

ひと気はなく、半壊した建物が闇の中に佇んでいる。
マドンネンブラウとウルティア間の国境からもっとも近い町であるクルトは、すでに廃墟と化していたのだった。

「最近滅びたってわけじゃ……なさそうだな」

数年分の風雨にさらされ荒廃としてはいるが、原型をとどめている建物もいくつかあるようだ。
アサレラの胸が思い描くのはセイレムの惨状である。

「…………これも、魔物の仕業か?」

ランタンを手にしたフィロがぽつりとつぶやく。橙色の光に照らされて浮かび上がるその横顔はやけに白い。

「…………いや。もしかしたら……人間の仕業かもしれないな」

横合いからロモロが言うのに、アサレラは首をひねった。

「どういうことですか?」
「先ほど聖王国の騎士が言っていただろう。魔物だけではなく賊の被害も増えていると」
「確かに……魔物に滅ぼされたセイレムはもっとひどかった……けど、今はそんな場合じゃないのに」

魔王が再臨し、魔物が横行する今、人間同士が対立している場合ではないはずだ。

「そうだな……キミのように思える人間ばかりだったら、そんなことにはならないだろうな」

そよぐ風のような軽い口調に、アサレラはなぜか引っかかりを覚える。木の葉が擦れ合って胸の底がざわめくような、そんな感覚だ。
なにか言わなければ、とアサレラが口を開きかけたとき、フィロがすっと掲げた手が視界を横切った。

「あれなら……屋根がある」

フィロの指さした小聖堂は、確かに外目からはほとんど被害がなさそうに見える。一晩過ごす程度なら、さほど支障はないだろう。
ひとまずアサレラは言いかけた言葉を飲み込み、その小聖堂へ向かうことにした。

ランタンの光が天井にあつらえられたステンドグラスを照らす。小聖堂は外観通り内部も荒らされておらず、今にも聖句の聞こえてきそうな静謐が広がっていた。
しんと静まり返った石畳が奥まる闇の中に、左手に剣を掲げた女神イーリス像が鎮座している。

「そういえば……リューディアと一緒にニーチェに行くって手もありましたね」
「ニーチェまではけっこう距離がある。かなり急がないと日暮れには間に合わないだろうから、彼女も急いでいたのだろうな」
「そうなんですか。……間に合ってればいいですけど」

頷きを返すアサレラの脳裏に明朗快活な少女の顔が浮かび上がる。リューディアはすでにニーチェへ着いただろうか――そこまで考え、リューディアから渡された手紙に思い至った。
いったいミーシャはなにをアサレラに伝えようと手紙を書いたのだろうか。それも、ほぼ初対面――エステバン杯の対戦相手ではあったが――のリューディアに預けてまで。
石畳に固いものが触れる音がして、アサレラは知らず下がっていた視線を上げた。

「フィロ、アサレラ殿。わたしは少しその辺を見て回るから、ここで休んでいてくれ」

ロモロの持つランタンの光が揺れ、小聖堂の中をやわらかに照らす。

「それなら、おれが行きますよ」
「いや、アサレラ殿はここにいてほしい。フィロを頼む」

ロモロはすでに扉へ手をかけている。それ以上食い下がることはせず、アサレラは頷いた。
ひやりとした外気が流れ込む。アサレラは壁へ凭れ、ミーシャの手紙を取り出した。
なんとなく開ける勇気が出ず、折りたたまれたままの表面を撫でていると、指先へ固いものが触れた。
手紙を広げ、中から出てきたのは。

「…………指輪?」

飾り気のない小さな指輪は、脇に置かれたランタンの光を受けて鈍く輝く。
なぜ、ミーシャは指輪を手紙に同封したのだろうか。とうとうアサレラは文面に目を通した。

「………………アサレラ……わたしの、母……父に……ええと……」

これまで勉学にほとんど時間を費やさなかったアサレラは、複雑な綴りの文字は読めない。ミーシャもそれを覚えていたのか否か、書かれている文字はさほど複雑ではない。ただ、十三年間の年月が、互いの認識の乖離を作り出すのは仕方のないことだ。

「…………オレが読んでやろう」

いつのまにか横に座っていたフィロが、アサレラの手元をのぞき込む。

「え、けど……うーん……いいのかな?」

ミーシャのことだから、妙なことが書いていないとも限らない。アサレラは渋い顔で手紙とフィロの顔を交互に見た。

「……読めないならいくら見ても仕方ないだろう。貸せ」

アサレラの返事も訊かず、フィロは手紙を取り上げた。

「…………。アサレラ、これはわたしのお母さんがお父さんに贈ったものらしいの。ずっと持ってたんだけど、ウルティアで外国人の女がこんな高そうなものを持ってたら盗まれるかもしれないと思うの。だからアサレラに貸すわ。大事なものだからちゃんとなくさず持っててね。貸すだけだから魔王を倒したら返しに来てね。ミーシャより。…………」

まったく感情を交えずにミーシャの綴った言葉を読み上げるフィロは、恐ろしく不気味だった。

「……だ、そうだ。よかったな」
「いや……なにが?」

フィロは手紙を元の通りにたたみ、アサレラへ押し返した。
アサレラは、ミーシャに託された手紙と指輪へ視線を落とした。両親の形見という指輪は、確かにミーシャにとっては何物にも代えがたい大事なものなのだろう。
しかし、それだけだ。
長年持ち続けたという言葉通り、小さな指輪には細かな傷がいくつも走り、銀色も鈍っている。

「大事なものなら、おれなんかに貸さずに自分で持ってればいいのに……」

こんなに小さなものをアサレラが持っていても、戦いの中で紛失する可能性は高い。ならばミーシャが自分自身で持っていたほうがよほど良いだろう、とアサレラが考えていると、フィロがじっとこちらを見つめていることに気がついた。

「な、なんだ?」
「…………別に」

フィロはふい、と顔を背けた。
フィロもミーシャも訳がわからない、と首をかしげるアサレラの耳へ、扉の軋む音が触れた。
ロモロが帰って来たのか、とアサレラは顔を上げた。
ぎらり、と目を射るのは、抜き放たれた刀身の光だった。

「なんだ、てめえら? どこから入って来やがった!」
「ちょうどいい、今夜の晩飯代になってもらおうぜ」

湾曲した剣を持つ十数人の男たちが続々と押し入って来る。
抱えていた思索を放り投げて、アサレラは素早く身構えた。