第22話 聖剣の威光

四人掛けの卓を囲むアサレラたちを、不穏な静寂と料理の香りが包んでいる。

たちというのは、フィロとロモロ、そして、例の神官だ。

周囲の客が聖者様が聖剣を抜く瞬間に立ち会えてよかっただの、あの剣士はどこかで見たことがあるだのと騒ぎ立てている中、アサレラたちの卓だけが不自然に静かだった。
もともと無口なフィロはともかく、こういうとき場をとりなすように穏やかな口調で語るロモロも、フィロへ二言三言なにかをささやくだけだ。

事の始まりは、宿を出ようとしたところでフィロとロモロと出くわしたことだ。
彼らはアサレラの行き先を聞いてここまで来たらしく、軒先で少しばかり話していると神官がやって来た。ミーシャの様態を看るためかと思えば、アサレラに話があるのだという。

「立ち話もなんですので、中で話しましょう。……もしよければ、あなたがたも」

それもそうだな、と神官の言葉に頷いた背後でフィロたちがどんな顔をしていたか、そのときのアサレラは気がつかなかった。

 

無言が作り出す圧迫感に、アサレラは呑まれそうになっていた。

――なんか……、フィロもロモロさんも、様子がおかしくないか?

アサレラの前に座る親子は、ただ黙っているというだけではないように思える。かといって、なにかあったのかと気軽に訊ける雰囲気ではなく、結果的にアサレラも口を閉ざしたままだ。

おれが聖剣を取ったことになにか思うところがあるのだろうか。ふっと疑念が胸をよぎり、いやそれはない、とアサレラはすぐに思い直した。

卓上に四つのグラスを置いた給仕が忙しそうに去って行く。
いやに疲れを感じるのは、きっと先ほどの戦いやミーシャとのやりとりが原因ではないだろう。アサレラはため息を押しとどめ、隣へ視線を向けた。

神官は赤い葡萄酒をなみなみと湛えるグラスを手に取った。
そうだ、この神官が来るまではフィロもロモロもいつもと変わらなかった。つまり、この妙な緊迫感の原因は彼にあるはずだ。

「えーっと……きみが聖剣を持ってきてくれてよかった。おかげであの魔人を倒すことができた」

その理由まではわからなくても、この沈黙はどうにか打破しよう、とアサレラは口を開いた。神官は金色の目でこちらを見上げ、かすかに笑みを浮かべる。

「これもまた、女神と聖王の思し召しです」

神官はグラスを置き、肩先で揺れるベールを払った。

「聖者どの、オールバニーでお会いしたとき、すでにトラヴィス様から宣告を受けていらっしゃったのですか?」

やはりこの神官はオールバニーでアサレラのマントを引いた、あの子どもだったのだ。

「いや……」

アサレラは曖昧に語尾を濁した。
そもそもトラヴィス王は、聖王都ドナウで真実を確かめろ、という旨のことを言っていた。事実が確定していない以上はトラヴィス王の予感でしかない、そう思っていたのはアサレラだけで、あれはすでに宣告だったのだろうか。

「それより……闘技場がああなって、明日から再開できるのかな?」

エステバン杯のことだ。

「中止するということはないと思いますよ。別の闘技場で開催するのではないですか?」

神官が言い切ってグラスを傾けると、再び沈黙が降りそうになる。

「……それで、きみは、なにか用があるんだろ? おれに」

アサレラが本題を切り出したとき、給仕が四人分の料理を運んで来た。
アサレラは立ち上がり食器を受け取り、卓の上に並べていった。
湯気の立つ木製の器をおのれの目の前に置いて腰を下ろすと、眉をひそめた神官がこちらの器をのぞき込んでいることに気がついた。

「……聖者どの、それはご自分の分ですか?」

アサレラの鼻先で湯気を漂わせているスープは店主おすすめの料理であり、肉と豆をたっぷりの野菜とともに煮込んだものらしい。

「あ、ああ……それがどうしたんだ?」

質問の意図を図りかねて、アサレラは眉を寄せる。

「イーリス教においては、豚肉を食べることは好ましくないとされているのですよ」

アサレラの困惑を悟ったらしく、神官は壁に貼り付けてある品書きを指した。

「パレルモ料理なら羊肉もあるはずでしょう」
「じゃあどうしておれが頼んだときに言わなかったんだ」

アサレラは今まで肉の種類など意識したことはない。王都で人気だという品を勧められるままに注文しただけだ。

「まさか聖者どのが召し上がるものだとは思わなかったものですから」

神官の言葉には多分に棘が含まれている。アサレラが言い返そうとしたとき、向かい側で黙ったままだったロモロが口を開いた。

「王子殿下、アサレラ殿は聖剣を使えはしますが、イーリス教徒というわけではない。教義を押しつけるのは、どうかと思いますが」
「王子? ……もしかしてマドンネンブラウの!?」

思わず身を乗り出すと、がたんと音を立てて椅子が倒れた。

「マドンネンブラウのエルマー・エトガル・フォン・フェールメールと申します。聖者どの、名乗りが遅れて申し訳ありません」

神官――もといマドンネンブラウ王子エルマーが、ベールに手をかける。肩先で切り揃えられた短い髪は、目の覚めるような鮮やかな青色だ。いつかロモロが語った、マドンネンブラウを治めるフェールメール家の直系は青い髪をしている、という言葉が脳裏でよみがえった。

「は、はあ……おれは、アサレラです」

椅子を戻しながらアサレラがフィロのほうを窺うと、果実水を飲むフィロの周囲を剣呑な空気が取り巻いている。周囲の客たちは酒が進んでいるのか、大声で騒ぎ立てるばかりでこちらを気にする素振りはない。

「聖者どのにはこの後、ドナウ王宮に来ていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか」

かけられた声に視線を移すと、エルマーが真剣な面持ちでこちらを見つめている。

「わかりました」

アサレラは頷き返しながら、それを言うためだけにエルマーはここまでやって来たのだろうか、と椅子へ深く腰掛けた。

「大聖堂から聖剣を持ち出してしまったので、聖剣の正式な継承者が現れたことを報告したいのです。それから……」

一瞬視線を迷わせたのち、エルマーは再びアサレラを見た。

「父にも会っていただきたいのです。……聖王の末裔として聖剣を担う者に語るべきことがあるのだと、常々言っていましたから」

すぐ近くでなにかを卓へ叩きつける音がして、アサレラは振り返った。
よほど強くグラスを握っているのか、真っ白になったフィロの指先で鮮やかな黄色や橙色が滲んでいる。

「聖王家だかなんだか知らないが……聖剣を引き抜くこともできないおまえたちが、こいつになにを言うつもりだ」

こちらを見据える青みがかった緑色の双眸の奥に、剣呑な光が潜んでいる。

「…………まさか、女神の教えだとか聖王の後継の心づもりだとか、そんなくだらないことをじゃないだろうな」
「お、おい、フィロ」
「おまえたちは聖剣の威光にあぐらをかいているだけだ」

フィロの言葉にアサレラはひやりとする。
今だけではない。セイレムで初めて遭ったときもそうだった。魔物に囲まれたときよりも魔人と対峙したときよりも、フィロの怒りはなによりもアサレラの胸の底を震わせる。
その理由がわからずとも、黙ったままでいるわけにはいかなかった。

「…………フィロ、この子ども……いやこの人……いやこの方……は、聖王国の王子なんだぞ」
「それがどうした……」
「あ、あのな……きみはよくても」
「いいえ、かまいません」

思わず腰を浮かしかけたアサレラを、エルマーが片手をあげて制した。

「…………魔王の脅威に晒される今となっては、王家の血を引いていることよりも、聖剣を継承できることのほうが、ずっと価値があるのですから」

不自然になにかを押し殺したような平坦な声が耳朶を震わせる。
アサレラは、フィロのほうを向いていた視線を横へずらした。
いつもはなにも語らないくせに、口を開いたかと思えば鋭い言葉を投げつけるフィロを咎めるのは、いつだってロモロの役割だった。
だというのに、そのロモロは今、口を噤んだままだ。

「ロモロさん……」

信じがたい思いでロモロの名を呼ぶと、エルマーが静かに立ち上がった。

「ぼくはもう戻ります。みんなが心配するでしょうし、これ以上あなたがたのお邪魔をしては申し訳ありませんから」

エルマーは一枚の金貨を卓へ置き、壁に立てかけていた杖を手に取った。
アサレラはほぼ反射的に立ち上がり、急いで言葉を探した。

「お……王子、その……、宿まで送ります」

聖王の血を引く証とされる青い髪がベールで覆われると、エルマーは幼い一神官にしか見えなくなる。アサレラはほぼ口をつけていない葡萄酒を一気に飲み干し、空になったグラスを置いた。

「……では、お願いできますか」

 

ひと気のない夜のカタニアを流れる空気は肌寒い。

月光を受けて白い建物の壁が浮かび上がる中を、アサレラとエルマーは少し距離を空けて並び歩いた。

「…………王子、ミーシャを助けてくれて、ありがとうございます」

そこかしこの酒場で騒ぎ立てる声が、波の遠音と重なり合う。

「ぼくは自分にできることをしたまでです。それに……あの方に生きる希望を与えたのは聖者どの、あなたではありませんか」
「おれは別に……あいつが踏ん張っただけです」
「そうでしょうか?」

エルマーの優しげな微笑を月の光が白く縁取る。

「それより王子、フィロ……あの薄紫の髪の男なんですけど」

アサレラはどうにも居心地が悪くなり、自ら振った話を強引に打ち切った。

「あいつがすみません。いつもはろくに話さないんですけど……ロモロさんも、いつもだったらもっと優しいんですけど、なんか今日は調子が悪いみたいで」
「そうですか。……あなたがそうおっしゃるのなら、良い方たちなのでしょうね」

エルマーは得心したように頷いた。

「五百年前、聖王アサレラには信頼のおける四人の仲間がいました。あなたにとって彼らがそうなってくれればよいのですが……」
「でも、おれは、あの二人とはドナウで別れる予定ですから」

ふいにエルマーが立ち止まる。
一拍遅れてアサレラも足を止め、突然歩くのをやめたエルマーへ振り返った。

「王子?」
「ありがとう聖者どの。ここまででけっこうです」
「え……けど」

見渡したところ、周辺に宿はないように見える。

「聖者どの……あなたがいるからこそ世界に平和がもたらされるのです。そのことをゆめゆめお忘れなきよう……」

暗い水の中を揺れるように金色の目が光る。

その輝きに声を失っているうちに、エルマーの後ろ姿は夜の闇の中へ消えていった。

 

アサレラが宿へ戻ったとき、ロモロは一人グラスを傾けていた。

「あれ、……ロモロさん一人ですか? フィロは……」
「もう休ませた」

アサレラはロモロの向かいへ腰掛け、空になったグラスを脇へずらす。ロモロは通りがかった給仕に声をかけ、それからこちらへ向いた。

「すまなかったな。フィロは王族や貴族が嫌いでな」
「…………それは、ロモロさんも……ですか?」

戦士リューディアや兵士イスベル、それからアサレラ。父親以外に対してフィロが辛辣な発言をすることは今までだって何度もあった。そのたびに息子をいさめていたはずのロモロは、今夜に限って黙ったままだった。

「おれだって王族も貴族も好きじゃないですけど、でも、あいつはそこまで悪い奴じゃないと思うんです。聖剣も持ってきてくれたし……ミーシャのことも」

アサレラはそこで言葉を切った。給仕が葡萄酒を注ぎに来たのだ。
空のグラスを赤色が満たす。給仕が去ったとき、ロモロが口を開いた。

「アサレラ殿、キミは、自分の生まれを誇らしく思うか?」
「えっ?」

思いがけない言葉にアサレラは面食らった。

「聖剣を持てるのはこの世界でアサレラ殿だけだろう」
「それは……まあ、そうらしいですね」
「その価値をもたらした両親をありがたく思うのか?」
「そんなはずないじゃないですか! おれは……」

おれは、自分を生んだ母親を捜し出して殺そうとしてるんですよ。

そんなことを人の親であるロモロに言うわけにもいかず、アサレラはつとめて冷静に言葉を探した。

「おれの親は相当のクソ野郎ですから、それはないですね」

アサレラは左手の甲を見る。
グローブを投げ捨ててしまったために、聖者の証たる聖痕は今、包帯の下で息づいている。

もし魔王が復活しなかったら、とアサレラは思う。

「なにに意味があってなにに意味がないのかなんて、わからないもんですね」

アサレラは復讐を遂げ、その血も乾かぬうちに斃死し、なんの価値もないまま終わっていただろう。いや、セイレムを出る前に死んでいたかもしれない。

だが、十九歳のアサレラは世界のすべての希望を背負うこととなった。
聖剣を使えるというただ一つの事実が、アサレラに価値をつけたのだ。

突如、ロモロが卓へのめるように突っ伏した。

「ロモロさん?」

返事はない。
グラスの中の葡萄酒の揺れが収まるころ、アサレラはもう一度口を開いた。

「……ロモロさん……もしかして酔ってます?」

アサレラがエルマーを送っているあいだにずいぶんと呑んだのだろうか。

「もう寝たほうがいいですよ。部屋まで行きましょう」

アサレラは立ち上がり、ロモロの肩を揺すった。
ロモロの背中がぴくりと動く。

「……エルマー王子は……王家の生まれであることを、誇りに思っていたのだろうな」

そのとき、包帯に覆われた聖痕が確かに熱を帯び、アサレラは顔をしかめた。