第42話 夜明け前

「リューディア!」

「おう!」

放たれた矢のように素早く飛び出したリューディアが、戦斧を振り回してゴーレムの足に叩きつけた。
少し遅れて駆け出したアサレラも、反対側の足を斬りつける。固い衝撃が剣から左腕へ走る。刃は少しも食い込まずにゴーレムの身体に弾き返された。

「き、効いてない……!?」

剣を右手に持ち替え、痺れる左手を握ってほどいて、まだ握る。何度か繰り返して、ようやく指先に感覚が戻る。

「なんだ、こいつ!? すっげー堅いぞ!」

斧による攻撃も効かなかったらしく、リューディアが信じられないといった様子でゴーレムを見上げる。

「無駄なことを。剣や斧ではこれを倒すことはできません」

ゴーレムの隣に付き添うように浮遊するジョンズワートが、こちらを見下ろして実に楽しげな笑い声をあげる。
ゴーレムが一歩ずつ進むたびに大地が揺れる。その向かう先に気づき、アサレラはあっと声を上げた。

「……まさか、町のほうに向かうつもりか!?」

「止めなくては!」

聖剣を左手に握り直して駆け出そうとしたそのとき、ずしん、と、地面がひときわ大きく揺れた。
まともに立つことすらできず、アサレラはとっさに近くの壁に手をつき、よろめいたリューディアの肩を支える。

「あっ……!」

聞こえた悲鳴に、アサレラははっとして振り返った。
ゴーレムの巨大な足の踏み出す先に、エルマーの姿がある。先ほどの衝撃で転んだらしく、すぐに立ち上がれないことは明白だった。

考えるよりも早く身体が動いた。
大地を蹴って、竦むエルマーの身体を抱えて地面に転がる。
打ち付けた左肩が痛みを訴える間もなく、アサレラの顔のすぐ横にゴーレムの足が振り下ろされた。
続けてやって来るであろう攻撃を察知し、アサレラは反射的に聖剣を突き出した。
だがゴーレムはアサレラたちのことなどまるで意に介さない様子で、そのまま通り過ぎていく。

「あ……ありがとう」

蒼白な顔色のエルマーを立たせた途端、背後でなにかが崩れる音が響いた。
ゴーレムが腕を振り上げて、おのれの行く道を塞ぐ障害物――煉瓦を積み上げた家屋――を薙ぎ倒したのだ。
建物はあっという間に無残な瓦礫の山となり、崩壊に巻き込まれた木が根元からへし折れる。砂埃が立ちのぼって夜空を覆い、星々の輝きが消えていく。

崩れ落ちる家屋。砂塵の舞い上がる空。いとも簡単に失われる命。このままでは、セイレムと同じように、王都ラグナも滅ぼされてしまうだろう。

――けど、どうやってあいつを倒す……!?

これまで、聖剣の太刀打ちできない魔物はいなかった。ジョンズワートは以前、聖剣で斬られればおのれの身体を維持できないと語っていたし、闇の身体を持つ魔人シルフも、聖剣の光に晒されれば日射しに晒された氷のように融解した。

絶望に沈みかけたアサレラの思考を引き戻したのは、耳元をかすめた風切り音だった。
リューディアの放った矢が空気を裂いて、ゴーレムに迫ったのだ。
当然と言うべきか、ゴーレムの頑強な身体は鏃を跳ね返した。

「うーん、やっぱダメか」

地面へ落下した矢が無残に踏み潰されるのを眺め、リューディアはさして残念でもなさそうに弓を背へ戻す。

「なにしてるんだ、リューディア! 剣も斧も効かないんだから、弓はもっと無理だ!」

「でもよ、あの隙間にうまいこと刺されば、転ばせられるんじゃねえかなって思ったんだけど」

言われてみれば確かに、煉瓦と煉瓦のあいだには、指が入るか入らないかというほどかすかな隙間があった。

「この剣ならどうでしょうか!?」

エルマーが腰に下げた剣を手に取った。聖剣やアサレラがかつて使っていた剣よりいくらか細身ではあるが、あのわずかな隙間に入り込めるほど細くはない。

「そうだ、ロモロさん! ロモロさんの剣なら、あの隙間にも差し込めるかもしれない!」

「そっか、おっちゃんの剣ならいけるかも。けど、ここに呼んでこなきゃなんねえな」

「エルマー、走れるか!?」

ゴーレムから視線を外さないままアサレラは叫んだ。

「おれたちはこいつを足止めする。ロモロさんをここに呼んで、きみはフィロと一緒に町のみんなを逃がすんだ!」

「はい!」

「行かせると思いますか? ゴーレム、あの小僧を潰しなさい!」

ジョンズワートの命令に呼応するように、空虚だったゴーレムの瞳孔にぎらりと光が宿る。
ゴーレムが腕を振り上げて、エルマーめがけて勢いよく叩きつけた。
石畳が吹き飛び、色とりどりの破片が飛び散る。
エルマーはかろうじて避けたようだが、踏みとどまることができずに地面へ転がった。

「さあ、もう一度!」

エルマーが立ち上がるよりも早く、その頭上に今度こそと言わんばかりにゴーレムの拳が振り下ろされる。
舞い上がった砂が目に入ったために、アサレラは瞬時に反応できなかった。

「エルマー!」

間に合わない!
背筋に冷たいものが流れる。
せめてもの抵抗のつもりか、エルマーが剣を頭上に構える。だがあの細剣とエルマーの力では、ゴーレムの拳を受け止めることはできないはずだ。

攻撃に耐えきれず剣は叩き割られ、エルマーは叩き潰される。骨は砕かれ、肉体はひしゃげ、とめどなく流れる血がアサレラのブーツを汚すだろう。

瞼の裏で明滅する恐ろしい惨劇は悪夢などではなく、今まさに目の前で起ころうとしている現実だ。アサレラは叫ぶこともできず、言葉にならない呻きを漏らした。

――ところが、その光景は幻と消えた。

飛び出したリューディアがエルマーとゴーレムのあいだに割って入り、戦斧で巨大な拳を受け止めたのだ。

「……リューディア……!?」

来るべき衝撃がいつまでも来ないことに気づいたらしいエルマーが、おそるおそる開いた目をはっと瞠った。
遅れて激しい鼓動を打ち始めた心臓を抑え、アサレラはようやく叫び声を上げた。

「エルマー、走れ!」

「で、でも」

エルマーは初めてためらいを見せた。おのれをかばって攻撃を受けたリューディアを置き去りにしていいものか、迷っているのかもしれない。

「……っ、これぐらい、なんでもねえ! けど、早く戻ってきてくれねえと、ダメかもしんねー!」

ゴーレムの拳を受け止める斧は震えているし、突っ張っている両腕はだんだん曲がっていく。誰が見ても、リューディアがそう長くは持たないことは明らかだった。

「……わかりました、二人とも、気を付けて!」

おのれがためらっていてはリューディアが助からないことを悟ったのだろう、エルマーはもつれる足で駆け出して行った。
ジョンズワートが無防備な背中に魔術の一つでも打ち込むのではないかとアサレラは警戒するものの、ジョンズワートはゴーレムの隣で苦々しげに佇むばかりだ。

――もしかしてジョンズワートは、ゴーレムを操ることに魔力の大半を使ってるのか……?

「仕方がない。まずおまえたちを片付けてから、あの小僧を潰すとしましょう」

その言葉に、閃きが確信に変わった。
と、リューディアが不意に力を緩めて、ゴーレムの攻撃を受け流した。均衡を崩したゴーレムの拳が地面にめり込んで、破片が飛ぶ。
光る目玉をこちらへ向けて、ゴーレムが腕を水平に薙いだ。

「リューディア!」

風圧でよろめいたリューディアの手を引いて体勢を立て直させる素振りで、アサレラは素早く耳打ちした。

「ロモロさんが来たら、二人であいつを引きつけてくれ。ジョンズワート――いや、あの魔人に気づかれないように。できるか?」

「できるかはわかんねえけど、やるしかねえさ。けど、なにするつもりなんだ?」

「ゴーレムを操ってるのはあの魔人だ。あいつを倒せば動力源の魔力がなくなってゴーレムも動かなくなる。あいつはゴーレムと魔術を同時に使えない、だから二人でゴーレムを引きつけて、できれば高い建物の近くに誘導してほしい。おれはそこから魔人を狙う」

そのとき視界の端で、夜の闇を払うかのような白色が浮かび上がった。
アサレラの注意はすぐさまそちらへ向いたが、すぐにその白の正体を察知した。

「ロモロさん……!」

「おっちゃん! 遅かったじゃねーか」

リューディアの声もまた、安堵からか明るく弾む。

「ああ、待たせてすまなかったな。事情はエルマー殿に聞いた」

事態はまだ解決していない。だが、細剣を携えて穏やかに笑うロモロを見て、張り詰めていた気持ちがわずかにほぐれるのをアサレラは感じた。

「じゃあリューディア、頼んだぞ!」

返事を待たずにアサレラは駆け出した。

町の外れ、人のいないどこかで、高い建物を探さなければ。

 

アサレラは走りながら周囲を見渡した。
周辺の高い建物や木は、すでにゴーレムによってあらかた破壊されている。
町の中心へ行くべきか。だが今は、フィロとエルマーが王都の人間たちを避難させているはずだ。もし終わっていなかった場合、ゴーレムをおびき寄せては大変なことになってしまう。

もしくは、なにか他の手を考えるべきか――。

「アサレラ」

おのれを呼ぶ声にアサレラは立ち止まった。

「……フィロ! どうしてここに?」

そこにいたのは、住人たちを安全な場所へ逃がしているはずのフィロだった。

「町の連中は王城へ避難させた。もう、町には誰もいない」

よかった、とアサレラは胸をなで下ろした。

「エルマーは?」

「城に残って怪我人を治療し……」

そのとき、地の底からずしんと轟音が響いて、地面が大きく揺れた。
いつのまにかゴーレムが近くに迫っていることに気づき、アサレラは慌ててフィロの腕を引っ張った。
瓦礫の影に隠れ、身を伏せる。ほどなくして、アサレラのすぐ目の前にゴーレムの巨大な足が現れた。

ジョンズワートはゴーレムの傍らでなにかを――いやアサレラを探し出そうとするために、くまなく視線を投げかけている。

アサレラはただ息を潜めて、ゴーレムが目の前を通り過ぎるのを待つ。打開策が見つかっていない今、ジョンズワートに見つかるわけにはいかない。
心臓が痛いほどに拍動し、不安が膨れ上がりそうに張り詰める。呼吸が乱れる。固唾を呑む音がいやに響くような気がする。

この音がジョンズワートに聞きとがめられはしないだろうか。今のアサレラにできることは、ただ気配を殺し、ジョンズワートたちが過ぎ去るのを待つだけだ。

やがてゴーレムの足音が遠ざかり、地面の揺れが少しずつ収まる。
アサレラはわずかに身を起こし、瓦礫の隙間からそっと覗いた。
巻き上がる砂埃の向こうで、大小二つの影がうごめいている。
影はだんだん砂埃に紛れ、闇の中へ溶けるようにして小さくなっていく。

「……あれが魔人か」

いち早く身を起こしたフィロが、もうほとんど見えなくなった影を眺めてぽつりと呟いた。

「ああ。あいつを倒せばゴーレムも動かなくなると思うんだけど、このままじゃ剣が届かない。どこか高いところに移動しないと」

アサレラもようやく立ち上がり、聖剣を鞘から引き抜いた。

「……町の中に高い建物はなかった。少なくとも、あいつを斬れるほどではない」

「そうか。ならやっぱり、城に行くしかないのか……?」

遠くにかすむサヴォナローラ城を睨む。あの城では今、エルマーを初めとする多くの人間が、魔人を打ち倒す聖剣の光を待ちわびているはずだ。

「……高いところに行けないなら、あいつを引きずり下ろせばいい」

思わぬ言葉にアサレラは振り返った。

「どうやって?」

「強風を起こす。もう高い建物はないから、どこにもしがみつけない。だから……地面に下りてくるはずだ」

「風……」

アサレラははっとしてフィロを見た。

「……まさか! 魔術を使うつもりか!?」

フィロはなにも言わなかった。

その沈黙こそが答えだと悟り、アサレラは狼狽した。

「だけどきみは……」

「…………ここには誰もいない。城からここを見ていても、あの魔人が魔術を使ったと思うだろう」

ふっと視線を落としたフィロの瞳に、陰が落ちる。

「もし……オレが魔術を使ったと知られても、オレが魔人と魔物を倒したと言えば、魔術士への差別意識は少しはマシになるかもしれない。……少なくとも、この町の連中は」

「けど、魔術を使ったら、また……」

「あのときみたいにはならない」

きっぱりと言い切って、フィロが視線を上げる。

「おまえはオレの……いや、オレと親父と……もしかしたら他の魔術士のために、魔術士が差別されない世界を望むと言った。それならオレも……それに応える」

喉元まで出かかっていた言葉が腹へ落ちる。

「……フィロ。もし自分を見失いそうになっても、ロモロさんや……おれたちのことを少しでも思い出してくれれば、きっとだいじょうぶだ」

フィロの決意は固い。アサレラがなにを言っても、魔術を行使するつもりだろう。ならばせめて、笑って背中を押してやろう。翳りのない瞳を見つめれば、フィロはアサレラの思いへ応えるようにかすかな微笑みを浮かべた。

「…………ああ」

フィロがジョンズワートとゴーレムへ向き直る。

舞い上がる砂埃に覆われ、月の光も星の瞬きも消えた空の下、フィロの指先が銀色の光を放つ。
魔力の波動を感じ取ったのか、それとも銀色の光に気がついたのか、ジョンズワートが振り返る。

「これは……魔術!? ……まさか!」

フィロの足元から風が巻き起こって、唸りをあげてジョンズワートへ向けられる。
風が激しく叩きつけるように吹きすさぶ。ジョンズワートはこらえようと空中で構えの姿勢を取るが、身体が少しずつ地面へ近づいてくる。制御する者を失ったゴーレムが地面へどうと倒れ込む。ジョンズワートはゴーレムを気にする素振りを見せたが、フィロの魔術に耐えることで精一杯なのだろう、ゴーレムが再び動き出す気配はない。

さあ、と風が凪いだのと、フィロがこちらへ目配せしたのは同時だった。

――今だ!

アサレラは駆け出し、聖剣を突き出してジョンズワートの心臓を貫いた。
夜の闇を裂くように、銀色の軌跡が走る。
黒い液体が噴き上がって、ジョンズワートの身体が頽れた。

「そうか……なるほど、そういうことでしたか……今ごろ気づくとは……」

強風の余波で、アサレラのマントやフィロの長衣の裾がはためく。

「アサレラ。おまえがどこへ行こうと、おまえの行き着く先にパトリス様はいらっしゃる……そのことを、心に……とどめて……おきなさい……」

維持できなくなったジョンズワートの身体が崩壊し、どろりと溶ける。黒い液体となって流れ出したジョンズワートの身体が石畳の溝を流れ、アサレラのブーツのつま先を汚した。

「ジョンズワート……」

聖者たるアサレラにとって、魔王の眷属であるジョンズワートは倒すべき存在だ。
だというのに、胸の底にわだかまるこの感情はなんだろう。

「ぐ……ううっ……」

はっと我に返り、アサレラはうずくまるフィロに駆け寄った。

「フィロ!」

「あっ、あ……ぐっ……う……」

地面へ垂れるゆるやかな髪の毛先が銀色の光を帯びる。聖剣の放つ光にも劣らない輝きで、二人のあいだに濃い影が落ちる。

「フィロ! しっかりしろ!」

アサレラは必死にフィロの背へ声をかける。長い髪に遮られて、フィロの表情は窺えない。

「約束しただろ、魔術士が――きみがふつうに生きられる世界にするって。だから、こんなところで自分を見失うな!」

「ぐ…………ううっ……」

フィロの髪を覆う銀色が少しずつ薄くなって、長い髪の隙間から覗く瞳がしっかりとアサレラを捉える。
アサレラは肩を掴み、フィロの目を真正面から見据えた。

「行こう、フィロ。おれたちと一緒に、ローゼンハイムに」

「…………わかっている。……約束したからな」

フィロを立たせてやりながら、アサレラは安堵の笑みを浮かべた。

「ありがとうフィロ。ジョンズワートを倒せたのはきみのおかげだ。きみの魔術が町を救ったんだ」

「……そうか。オレが……オレの力が……」

答えるフィロの声はやわらかく、唇はわずかにほころんでいる。
と、複数の足音がこちらへ向かってくるのが聞こえて、アサレラは振り返った。

「フィロ! アサレラ殿! 無事だったか!」

「魔人がゴーレムとどっか行っちゃったときはどうなるかと思ったぜ」

「……二人とも怪我はありませんか?」

ロモロとリューディア、二人に少し遅れて続くのはエルマーだ。

アサレラは手を上げて応えた。

「ああ、おれたちはだいじょうぶだ。それより早くあの山を越えよう、もし魔術を使うところを見られていたら面倒だからな」

「ま、魔術を使ったのですか!?」

「フィロ、体調は……?」

「……問題ない」

「えー、あたしも見たかったな。なあなあフィロ、ローゼンハイムに着いたらあたしにも見せてくれよ!」

「見世物ではない。エルマーの聖術で我慢しろ」

「ぼくの聖術も見世物ではありません!」

「まあまあ……聖術も魔術も、使わずにすめばそれに越したことはないだろう?」

まもなく夜が明ける。
東の果てに、アサレラは黎明の光を見た。