第41話 恋

聖剣を構えるアサレラへ、ジョンズワートはやれやれと肩をすくめた。

「剣を納めなさい。こんな街中で戦うつもりですか?」

視線だけを周囲へ向ければ、アサレラとジョンズワートの周辺を避けるように行き交う人々が、怪訝そうにこちらを窺いながら、巻き込まれるのを恐れるように足早に去って行く。中には面白そうに見物している者もいたが、別の誰かに連れられてやがてどこかへ消えた。

至るところで輝きを放つ色彩豊かな光を受けて、銀色の切っ先が七色に彩られる。その向こうで呆れたように微笑するジョンズワートを睨みながら、アサレラはめまぐるしく駆け巡る思考を慎重に整理する。

このままアサレラが剣を納めなければ、遅からず誰かが兵士へ知らせるだろう。聖王都ドナウで初めて対峙したとき、ジョンズワートの身体は煙のようにかき消えた。

今、サヴォナローラ兵がここへ来れば、あのときと同じようにジョンズワートは姿を消すだろう。
兵士に対しては事情を説明すれば、聖者たるアサレラが咎められることはないだろう。だがそうなると、次にジョンズワートと再会するのはいつになるかわからなくなる。デシレーの一行を襲ったのは恐らくジョンズワートだ。それについても問いたださなければならない。

長いため息の後、アサレラは剣を鞘へ納めた。だが、いつでも剣を抜けるように、左手は聖剣の柄へ添えたままだ。

「……おまえの知ってることを教えてくれる約束だったよな。話せ」

ジョンズワートはにっこりと笑った。魔王の眷属として世界を滅亡に導くようにはとても見えない、邪心のない笑顔だった。

「思っていたよりも頭は回るようですね」

エルマーによく似た幼気なその笑みに毒気を抜かれそうになりそうになる。それでもアサレラは油断なくジョンズワートを見据えた。

「次に会ったとき知ってることを教えるって言ったのはおまえだろ」

それに、と、アサレラは聖剣の柄へ触れている左手を固く握りしめる。

「他にも聞きたいことがあるし」

ええ、とジョンズワートは頷いた。

「場所を変えます。……あの小僧には会いたくないのでね」

「エルマーのことか? 確かに、自分と同じ顔の奴を見たら驚くかもな」

「いえ、そうではなく……いや。移動するのが先です。着いてきなさい」

アサレラの返事を待たず、ジョンズワートはすたすたと歩き出す。こちらを振り返ることもなく、人と人の間を器用にすり抜ける。迷いのない足取りからして、明確な目的地があるのだろう。

逡巡したのは一瞬だった。アサレラは長椅子の上に置いていた荷物を急いで抱え直し、遠くなっていく背中を追いかけた。

 

ジョンズワートに連れられた先は町の外れ、人通りのない暗い路地をさらに奥へ入った突き当たりだった。

「なんでこんなとこまで」

中央広場からはずいぶんと離れてしまった。町の灯りは遠く、風に乗って人々の声がかすかに聞こえてくる。

「わたしは魔の眷属ですから。明るいところは嫌いなのですよ」

建物と建物の隙間から細く差し込む月の光さえまぶしいと言わんばかりに、ジョンズワートが目を眇める。

アサレラは聖剣を抜き、しかし切っ先を突き付けることはなく、ジョンズワートを見据えた。

「さあ、話を聞かせてもらうぞ」

ここならば、誰かに見られることはないだろう。

「ええ。わたしに答えられることでしたら」

ジョンズワートはしらじらしく胸に手を当ててみせる。

「砂漠で行商人一行を襲ったのはおまえだな」

「おかげでおまえたちはラグナまで辿り着いたのでしょう。よかったですね?」

邪気のない笑顔に背筋が冷える。ジョンズワートはどこまで知っているのだろう。ラグナへ向かうためにデシレーを斬ろうという考えがよぎったことすら把握しているのだろうか。

「……それとこれとは別だ。どうしてそんなことをしたんだ」

内から湧き上がる罪悪感を払拭するために、アサレラはつとめて固い声を出した。

「わたしは魔王の眷属なのですから。人間に危害を加えるのは当然ではありませんか」

言われてみれば確かにそうだが、どうも腑に落ちない。

「けどジョンズワート、おまえは……」

「その前に。今度はわたしが問いましょう」

こちらを見つめる金色の瞳が、闇の中で月のように光る。

「アサレラ。おまえは、恋をしたことがありますか」

「は……?」

思いもよらない質問が飛んできて、アサレラは思わず間の抜けた声を上げてしまった。

こい、恋……、恋愛?

あまりにも縁遠い単語であったため、呑み込むのに幾分かの時間が必要だった。ジョンズワートの知る聖王と魔王の話と恋愛が、いったいどう繋がるのだろうか。

いや、それよりも。

「…………あの……さ。おまえにこんなこと訊くのもどうかと思うけど、……恋愛って、どういう感情なんだ?」

恥を承知で尋ねれば、ジョンズワートが目を瞠る。

「吟遊詩人の歌で何回か聴いたから、恋って言葉は知ってる……けど、おれはこれまでほとんど人と関わってこなかったから。そういうの、よくわからないんだ」

こんなことになるのなら誰かに聞いておくべきだったかもしれない、とアサレラは少し後悔する。もっとも、教えてもらったところで理解ができなかったかもしれないが。

「……なるほど。おまえも大概、苦労の多い生き方をしてきたのですね」

とはいえわたしも人間の繁殖過程にはさほど詳しくはないのですが、と前置きし、ジョンズワートは恋について語り始めた。

「特別に思うこと、その者のことばかり考えてしまうこと。あとは……相手と世界を天秤にかけて、世界を捨てて相手を選ぶこと……でしょうか」

「相手と世界の二択……ってことか? どういう状況なんだ、それ」

「仮定の話ですよ。そう……たとえば、もしそうなったとき、アサレラ、おまえはどうしますか」

「どう……って」

「滅びゆく世界から目を背けてでも、愛しい者の手を取る。それほど特別に相手を想うこと……おまえに理解できますか」

「いや、おれに愛しい者なんていないんだけど……」

「……では、おまえの仲間にでも置き換えて考えなさい」

仲間と言われて思い浮かぶのは、あの四人の顔だ。

初めてできた友人、初めて優しくしてくれた大人で剣の師匠、おのれを兄のようだと称した少女、そして、初めて家族という存在を悪くないと思わせた異父弟。

四人とも、アサレラにとって大事な人たちだ――だが。

「……いや、できないな」

世界と大事な人を天秤に乗せるまでもなく、アサレラが選ぶべき答えは一つしかない。

「…………ほう?」

「だって、聖剣を持つおれが、たった一人のためにみんなを見捨てるなんてできない。だいたい、世界より大切な人を選んだところで、世界が滅びればその人も死ぬんだろ? それなら、その人が生きていた世界を守らないといけないんじゃないか……と、思う」

かつてフィロは言った。斬りたくなくてもそれが使命なら、おまえはオレを斬れるだろう、と。

友を斬りたくはないと、あのときのアサレラは答えた。その気持ちは今でも変わっていない。

だがフィロがそれを望むのなら、おのれが生きた世界を選んでほしいと願うのなら、どれほどつらくても、アサレラはフィロを斬らなければならない。悲壮な決意はそっと胸のうちにとどめた。

「そうですか。聖剣を持つ者にふさわしい模範解答ですね」

ジョンズワートの声にはどことなく棘がある。世界を選ぶと答えたアサレラを肯定しながらも、どこか意外に思っているかのような響きだ。

「ところが、もう一人の聖剣を持つ者は、そうは考えなかった」

「聖王アサレラ……」

「ええ。アサレラは世界よりも個人を選んだのですよ。それも二回も」

「……どういうことだ?」

「まあ、アサレラがレーゲングスを女神に託されたのは、おのれの不始末を片付けるためだけですから。その点で言えば、おまえのほうがよほど聖剣を持つのにふさわしい」

こちらへ向けられる蔑むような眼差しは、おのれを通して聖王アサレラに向けられているのだろうか。

「パトリス様とアサレラは同じ相手に恋をしました。誰だかわかりますか?」

考えるよりも早く、つややかな青い髪をなびかせる後ろ姿がアサレラの脳裏に閃いた。

「…………エルフリーデ王女?」

「ご明察」

ほとんど反射的にその名を口にした途端、ジョンズワートの目に冷然たる光が宿る。

「一つの魂を分かち合った二人が、同じ女を好きになる。いかにも作られたような話だと思いませんか?」

答えあぐねるアサレラにかまわず、ジョンズワートはさらに続ける。

「パトリス様は兄に、ご自身の恋について相談していたそうです。にも関わらずアサレラは、パトリス様が公国へ逗留しているあいだにエルフリーデに求婚しました。……ローゼンハイムから帰国したパトリス様が事実を知ってどう思ったか、想像に難くないでしょう」

「ま……待てよ。じゃあ、パトリスは恋に敗れたから魔王になったってことか?」

視界が揺れる。心臓が逸る。呼吸が苦しい。

混乱、疑心、恐怖、不快感。胸の中で膨れ上がってはち切れそうになる感情を吐き出すように、アサレラは叫んだ。

「そんなことで……たったそれだけのことで世界を滅ぼそうとしたのか!?」

「本質はそこではない」

静かだが反論を許さない響きに、アサレラは思わず息を呑んだ。

「パトリス様とアサレラは孤児でした。イーリス王に拾われるまでは、二人きりで生きていた。そのたった一人の家族に裏切られて、パトリス様は誰も信じられなくなった」

家族、という言葉がアサレラの心に重くのしかかる。

「パトリス様は深く傷ついた。それでも兄と想い人の恋を応援するため、そして自身の傷を忘れるため、パトリス様は以前にも増して魔術にのめり込んでいった」

おれなら、と、アサレラは聖剣を握る左手に力を込める。おのれを裏切った家族を許すことができただろうか。いや、きっとできなかったはずだ。

――おれは、おれをあんな目に遭わせたあいつらを許せなくて、復讐することを夢見て生きてきた。でもパトリスは、前を向こうとしていた……。

だが今、アサレラは希望をもたらすために聖剣を手に取り、パトリスは世界を絶望に陥れようとしている。

「そんな中、パトリス様は見つけたのです。神の遺した混沌の杖ピュロマーネ……秩序の剣レーゲングスと対を為す、女神イーリスが右手に掲げる杖を」

ピュロマーネ、混沌の杖、秩序の剣。次々にもたらされた情報が旋回する頭がひどく痛む。ふらつきそうな足を叱咤し、アサレラは一歩前へ進み出た。

「ピュロマーネなんて、聞いたこともない。聖堂とかにある女神像は、左手に剣を持ってるけど、右手にはなにも持ってなかった。だいたい、レーゲングスを秩序の剣なんて呼んでる人は見たこともないぞ」

「そうでしょうね。おまえたち人間はいつもそうです。特に、聖王家に都合の悪い事実は伏せられる。おまえも身に覚えがあるでしょう」

思わぬ反撃に黙り込んだアサレラへ、ジョンズワートはさらにたたみかける。

「女神イーリスはピュロマーネを以て混沌の炎を封じ、レーゲングスを以て秩序の雨を降らせた。それが世界の始まりです。ピュロマーネを手に取ったパトリス様に膨大な魔力が流れ込んだ。人の器を超える魔力にパトリス様は……」

ジョンズワートが目を伏せると、金色が翳る。だがそれは一瞬のことで、再び見開かれた瞳は満月のように爛々と輝く。

「あとは歴史にあるとおり。パトリス様は魔王となり、レーゲングスを手にしたアサレラに討たれた」

「……アサレラが世界よりも個人を選んだって、どういうことだ?」

「そのままの意味ですよ。女神に課せられた使命を忘れ、アサレラは世界よりも愛する者や弟を選んだ。本当に愚かな男です」

「…………弟よりもエルフリーデを選んだから、パトリスは魔王になったんだろ。それなのに世界より弟を選んだって、どういうことだ?」

そのとき、妙に慌ただしい足音が聞こえてきた。こちらへ向かって来ているようだとアサレラが認識するよりも早く、脇の角から小柄な人影が飛び出した。

「探しましたよ、アサレラ! なぜこんなところにいるのですか!?」

やはりというべきか、正体はエルマーだ。ぜえぜえと息を切らし、ローブの裾をはためかせながら、エルマーは猛然とアサレラへ詰め寄った。

「はぐれるなと言ったのはアサレラでしょう! あなたがどこかへふらふら行ってどうするのですか!」

「お、アサレラ見つかったか?」

エルマーの後ろからひょっこり姿を覗かせたリューディアが、ジョンズワートを見上げて目を丸くする。

「……なあ。あいつ、エルマーにそっくりじゃねえか?」

その言葉にようやくジョンズワートの存在に気がついたらしいエルマーが、はっと息を呑む。

「えっ……まさか! デシレーが言っていた魔人……!?」

「……刻限のようですね」

ジョンズワートの身体がふわりと浮かび上がる。

風もないのになびく青い髪が闇に溶け、光る金色の瞳が夜の中に浮かび上がる。月が二つ増えたみたいだな、と場違いな思いがアサレラの脳裏をかすめる。

「わたしもシルフと同じように、パトリス様の眷属としての役目を果たしましょう」

ジョンズワートが右手を挙げた瞬間、雷鳴が轟くように空気が震え、地の底から轟音が響いた。

大地が激しく揺れる。均衡を崩して傾いたエルマーの身体をリューディアが支えるのを視界の端に捉えながら、アサレラは目の前の光景を信じられない思いで凝視した。

「さあ、ゴーレムよ! 破壊の限りを尽くしなさい!」

煙のように立ちのぼった砂埃の向こうで、いくつもの煉瓦を重ねたかのような巨大な魔物――ゴーレムが、光のない瞳孔でこちらを見下ろしていた。