第10話 残光

空の色が赤い。
地平線の果てへ没する太陽と、大地を包む業火のために。

燃えさかる輪が空中で絶え間なく回転し、無数の炎を雨のごとく地上へと降り注いでいる。
背後から迫る炎の渦から逃れるべく、アサレラは走った。
どこへ向かっているのか、そもそもここはどこなのか。
わからないまま、炎の降りしきる地を、アサレラは進み続けた。
身体が重く、思うように動かない。
全身が焼かれたように熱いのに、流れる汗はいやに冷たい。
焼かれ死んでいく人々の嘆く叫びが、アサレラの足首に見えざる手となってまとわりつく。
吹き寄せる風は熱を帯び、炎を煽り立ててやまない。
輪が回り、風が吹くたび、呻く声は数を増し、アサレラをその場にとどめようとする。
鉄の枷を引きずるようにひた走るアサレラの足はもつれ、焼けた大地へどっと倒れ伏せた。
どれだけ力を込めても起き上がることができない。天へ至るほどに勢いづいた炎の渦中に、アサレラは今まさに呑まれようとしていた。

「あれを見て」

いつか聴いたような女の声が、アサレラの頭上へ落ちた。
アサレラは、倒れたまま顔をあげ――その顔がこわばった。
銀色の髪に、明るい茶色の目をした女。水面で時折見るおのれの姿と、おそろしいほどよく似ている。

――アデリス……!?

確かにその名を呼んだはずなのに、喉を強く掴まれたように声が出ない。
アサレラは父ロビンや養母コートニーの顔もすでにおぼろげで、母アデリスにいたってはほとんど覚えていない。
だが、間違えようもなく、彼女はアデリスだ。
空を仰ぐアデリスにつられ、アサレラもうつ伏せたまま視線をあげた。
赤い炎を振りまきながら回転する銀色の輪の中心に、裸体の人間がくくりつけられている。
男か女かも分からぬその人間は両手首と両足首を輪に縛りつけられ、全身を炎に包まれながら、いつまでも回り続けている。

「あれは、あなた。やがてあなたが行き着く先よ」

アデリスの背後で、セイレム村が焼け爛れていく。かつて村だったものが跡形もなく黒く溶け落ちる。

「あなたは、炎を消す手立てを、もう知っているでしょう?」

アデリスの銀色の髪がなびき、炎を照り返して輝く。
黒い液体が流れ、地面を力なく掻くアサレラの指先へどろりと迫る。
渾身の力を込めてアサレラはアデリスへ腕を伸ばし、熱された空気を吸い込んだ。

 

「アデリス! きさまだけは、おれ……が……」

戸惑いに目を丸くするロモロの顔が、眼前にあった。
なじる声の勢いが急速にそがれ、語尾は発されないまま二人のあいだへ落ちる。

「……あなたは…………ロモロ……さん」

アサレラは一つ瞬きをした。

「…………目覚めたようだな」

白い霧がゆっくり晴れていくように、アサレラの意識が徐々に冴えていく。
アサレラが膝をついているのは焦土ではなく、寝台だ。
アサレラが胸ぐらをねじり上げている相手はアデリスではなく、ロモロだ。
ようやくおのれの置かれている状況を理解し、アサレラは慌てて手を引っ込めた。

「すっ……すみません」

「いや……気にしなくていい」

ロモロは襟元を直しながら、苦笑を浮かべた。
いたたまれない思いで手を下ろしながら、アサレラは辺りを見渡す。
寝台と卓を一つずつ備えただけの室内はさほど広くなく、ひっそりと薄明るい。ごく小さな窓には薄いカーテンがかかっている。

「おれ、倒れてからの記憶がないんですが……ここ、どこかの宿ですか?」

あれから幾刻かの時間が経ったのだろう。カーテン越しに差し込む光は夕暮れの気配を帯び、細い石を詰められた壁をほのかに照らしている。

「わたしが運んだ。ここはカタニアの宿だ。……キミはキラービーの毒が回り、あやうく死ぬところだったのだ」

アサレラはその言葉で、ウルティアに入る直前、ダルウェント川の近くでキラービーと戦闘をしたことを思い出す。

「そういえば……あのとき、キラービーを掴んだ……ような」

手袋越しだったというのに、毒は皮膚へ染み出し体内へ回ったのだろう。キラービーは剣の一撃で斬り捨てられるほど脆弱な魔物だというのに、毒は存外強力であるらしい。

「ずいぶん無謀なことをするな。……だが、息子を助けるためだろう」

白色から金色へ変じた光が、ロモロの輪郭をやわらかく縁取る。

「魔物との戦闘でキミがフィロをかばったことを聞いた。ありがとう」

「い、いや、おれは……」

妙に気持ちがそわそわと落ち着かなくなり、アサレラは視線をさまよわせた。

「そ……そういえば、解毒はロモロさんがしてくれたんですか?」

「ああ。ただ、手持ちに薬草がなくてな。手当てが遅れたらどうしようかと気が気でなかったが、緑髪の女性が薬草を分けてくれたのだ」

「……緑の髪の、女?」

緑色の髪など珍しくはないが、それでも、まさかという思いが拭いきれない。

「そうだ、キミの名前はなんという?」

考え込んでいるところに思いもよらないことを言われ、アサレラは眉を上げる。

「おれの名前……ですか?」

「息子に訊いたのだが、知らないと言ったのでな」

アサレラは、セイレムでフィロと出会ってから今に至るまでの記憶を順番に辿っていく。
確かにロモロの言った通り、アサレラはフィロにおのれの名を言っていない。
ミーシャには名乗ったが、フィロはその場にいなかったのだから、フィロがアサレラの名を知るはずもない。
アサレラは握った拳を胸に押し当てた。廊下から響く静かな足音が、まるでおのれの心音のように感じられる。

「……おれは」

足音が扉の前で止まり、扉が開く。
アサレラがそちらへ顔を向けると、夕映えの光の中にフィロがたたずんでいた。
逆光へまぶしげに目を眇めるフィロの足下で、影が長く伸びている。アサレラはフィロの名を呼ぼうとしたが、なぜか喉がすぼまり声が出ない。
フィロはアサレラへちらりと視線をやったが、なにも言わずにロモロへ近寄った。

「親父。腹減った」

「そうだな、下で食事にしよう」

空腹を主張するフィロへ微笑してから、ロモロはアサレラに向き直った。

「どうだろう、キミも一緒に」

「え」

アサレラはとっさにしり込みしかけたが、断る理由は別にないのではないかと思い直した。むしろ、ここで拒否するほうが不自然である。
それに、まもなく夜を迎えるこの時分から別の宿を探すのは骨が折れるだろう。

「ええと、じゃあ……はい」

そしてなにより、アサレラも腹が減っているのである。

 

階下へ降りると、卓を囲む人たちの賑わう声と空腹を刺激する匂いが押し寄せた。
給仕係が忙しそうに駆け回っている。すでに卓は半数以上が埋まり、おのおの夕餉を楽しんでいるようだ。
どこか空いているところはないかと見渡すアサレラの脇を、フィロが足早にすり抜け、壁際の卓へ腰かけた。

「あそこが空いているようだな」

ロモロが進み、アサレラがそれに続く。
フィロの隣へロモロが近寄り、アサレラが二人へ向かい合う椅子を引くと、すかさず給仕がやって来る。
マントを外しがてらロモロが給仕と言葉を交わすのを、なんとなしに見ながら、アサレラは腰かけた。
給仕が小走りで去ると、三人のあいだに沈黙が降りた。
アサレラは、視線をさりげなく前方の二人へ向ける。フィロは裾を手で整え、ロモロはマントを椅子の背へ掛けてから腰を下ろした。
周囲は変わらず騒々しいままであるというのに、無言が耳について仕方ない。
こういうとき、まず、なにを話すべきなのか。
さきほど名乗り損ねた名を改めて言うべきか。思えば誰かと食事をすることなど初めてで、どうしたものかとアサレラは当惑する。

「……ところで、キミはコーデリアの出身なのか?」

どう話題を切り出したものかアサレラが考えていると、いきなり水を差し向けられる。

「あ、はい。オールバニー……です」

正確には王都に住居を構えているわけではないが、活動拠点には変わりない。

「ということは東部だな。わたしたちもコーデリア東部に住んでいるのだ」

「そうなんですか」

アサレラは焦った。せっかく向こうから話題を提供してくれたのだから、なにか話をつなげるようなことを言わなければならない。
しかしアサレラはなごやかな雑談というのが不得手であった。

「…………ずっとそこに住んでるんですか?」

結局うまい言い回しが浮かばず、質問で返すことにした。

「いや、ここ六、七年ほどだな。以前は別のところに住んでいた」

アサレラは、おれもそうです、とは言わなかった。
話が途切れたところで、給仕がおのおのの飲み物を運んでくる。
赤い葡萄酒が二つと、輪切りのオレンジが入った水のグラスが一つ。アサレラとロモロの前に葡萄酒のグラスが置かれる。
アサレラは、眉をひそめてフィロを見やった。

――こいつ……未成年なのか?

飲酒年齢に達しているのであれば、より高価な飲料水をわざわざ頼むはずもない。少なくとも、アサレラはそうだ。
フィロはアサレラの視線など意に介せずグラスを傾けている。オレンジ色がグラスに滲み、溶けて丸くなった氷がからからと音を立てた。
さきほどの、人目をはばからない抱擁がアサレラの脳裏をよぎった。
あれは幼さゆえだったのか。どうにも腑に落ちないが、ロモロも三十代そこそこに見えるので、フィロはアサレラよりも幾分か年下なのかもしれない。

――そうは見えないけどな……。

まあいいかと、アサレラは葡萄酒のグラスへ手を伸ばした。

「――率直に訊くが……、キミは聖者アサレラ殿だな?」

投げかけられた声に、アサレラは反射的にロモロを見た。