第一章 アンコール

植物が朽ち果てていくような青い臭いが満ちている。
石造りの回廊の奥は、わずか先も見えないほどに暗い。アルドリドは聖剣アトロフォスの光だけを頼りに進む。壁に左手を添えると、湿った感触が伝わってくる。
謁見の間へ通じる重厚な扉を開けば、目的の人物は最奥の玉座へ深く腰掛けていた。

「きさまがハインラインのアルドリドか」

光そのもののように輝く白金色の髪。白皙の顔に長い耳。重い闇が立ちこめる謁見の間で、そこだけが場違いに明るかった。

「魔王フィービー……!」

高い天井に施されたバラ窓を透かして降り注ぐ光が、魔王と畏怖される妖精エルフの青年を極彩色に縁取る。
アルドリドは中央まで進み出て、玉座に座るフィービーを見据えた。

「わたしはアルドリド・オブ・ハインライン。魔王フィービー、わたしはおまえを倒しに来たのだ」

フィービーは嘲笑を浮かべて立ち上がった。

人間ファームの分際で、このおれに勝てると思うのか?」

フィービーがゆっくりとアルドリドへ歩み寄る。ブーツの底が固い音を響かせるたび、辺りの闇を払うように長い髪が揺らめく。
長身で痩せぎすの体躯は決して強靱ではなく、妖精というだけあり優美ですらある。だというのにフィービーが放つ威圧感は尋常ではない。

やはり彼はただの妖精ではない。
何度対峙しても、内側から圧迫されるような恐怖に気圧されそうになる。アルドリドの胸が逸る。

「魔王! 聖剣アトロフォスの下におまえを必ず倒してみせる!」

胸の底が臆するのを、アルドリドは叫び声でかき消した。
アルドリドに未来を託して散っていった父と母と民たち、そしてともに戦った同胞のためにも、ここで退くわけにはいかない。魔王を倒せるのは、聖剣アトロフォスを持つアルドリドしかいないのだ。

「愚かな……あまりにも愚かすぎる」
「黙れ……! 凶行の報い、今こそ受けるときだ!」

掲げた聖剣の放つ輝きがアルドリドの心を奮い立たせる。祖国ハインラインを滅ぼし、両親を手にかけ、民を苦しめた悪逆なる魔王を、今度こそ討ち滅ぼすのだ。
魔王がわずかに目を眇める。その隙にアルドリドは深く踏み込み、聖剣を鋭く突き立てた。
聖剣がフィービーの皮膚を破り、肉にめり込む。

「ば……ばかな……」

鮮血があふれ出すのよりも早く、その臭いが立ちのぼる。骨を削る感触が剣を握る手に伝わってくる。
魔王の目が驚愕に見開かれる。
アルドリドは勝利を確信し、フィービーの身体から剣を引き抜いた。あれほど暴虐の限りを尽くした魔王は、あっけないほど脆く頽れた。

そのとき、足下がぐらりと揺れた。

「うっ、く……また……か……!」

身体から急速に力が抜けていき、アルドリドは膝をついた。
遠ざかっていく意識をつなぎ止めようと、アルドリドは剣を握る指先に力を込める。
呼吸が苦しい。天と地が何度もめまぐるしく入れ替わり、強烈な吐き気がこみ上げる。アルドリドはとうとう目を閉じた。

「父上、母上……みんな……すま……ない……」

どこかで水の流れる音が聞こえる。
視界に黒い幕が下りていくように、アルドリドの目の前が暗くなっていく――。

▽▽▽

「…………か。アルドリド殿下!」

目を開けると、男の暑苦しい顔が目の前にあった。

火の粉の爆ぜる音、川のせせらぎ。耐えがたいほどの目眩と嘔気にうずくまっていたはずのアルドリドは平らな岩に腰掛けている。

「葡萄酒をお持ちしたのですが……王子殿下、お疲れですか?」

ハインライン王国軍第三騎士団の長である若き青年ジャスティンが、アルドリドの顔をのぞき込んでいる。アルドリドをあれほど苛んだ痛みも苦しみも、まるで嘘だったかのように消え去っていた。

「ああ、いや……だいじょうぶだ。心配をかけてすまない」

さらに顔を近づけようとするジャスティンをさりげなく手で押しとどめ、アルドリドは酒杯を受け取った。なみなみと注がれた赤色が杯の中でかすかに揺れる。
周囲に視線を巡らせると、夜の暗がりの中で兵士たちが篝火を囲んで楽しげに騒いでいる。
アルドリドは悟った。ここは妖精の棲まう森エルフェイムだ。アルドリド率いるハインライン軍は今、森の中の開けた場所で野営をしているさなかなのだ。
また、戻ってきてしまったのだ――アルドリドは嘆息した。

「決戦はいよいよ明朝……憎き魔王を打ち倒す日がようやく来たのですね」

アルドリドは視線を上げた。ジャスティンの目にうっすらと涙が浮かんでいる。

「どれだけこの日を待ちわびたことか……。殿下が雪辱を遂げられれば、亡くなられた両陛下や国民たち、散っていった戦友も浮かばれるでしょう」

アルドリドは杯を傾け、一息に飲み干した。濃厚で甘い葡萄の香りが鼻腔を抜け、舌先を痺れさせる。

「………………そうだな……」

いや、そうではない。アルドリドは空になった酒杯を脇へ置き、おのれの手をじっと見つめた。

「一度は煮え湯を飲まされましたが、もはや妖精どもなど恐るるに足りません。聖剣アトロフォスがある限り、殿下の勝利は約束されたも同然です」

あのとき、この手は確かに魔王にとどめを刺した。

「魔王を討伐した暁には、きっとエルシー殿も女神クローティアの声を聞くことができるように……」
「ジャスティン」

おのれの手のひらを凝視したまま、アルドリドはつぶやいた。

「はっ……申し訳ありません! 失言でした」

がちゃ、と金属音が響く。居住まいを正したらしいジャスティンの顔を見ることができず、アルドリドは声を絞り出した。

「………………魔王は、……魔王フィービーは、まだ生きていると思うか?」

胸が逸る。
これまでともに戦ってきたジャスティンは、アルドリドの言葉を信じるだろうか。

「あのときも、今も……その前も! わたしは確かにこの手で、あの男を……」
「アルドリド殿下」

いやに優しげな声が頭上へ落ちる。
アルドリドが視線を上げると、ジャスティンは苦い笑みを浮かべていた。

「殿下……、やはりお疲れなのではありませんか? 僭越ながら、もうお休みになったほうがよろしいかと思います」

かっとしてアルドリドは立ち上がった。

「ジャスティン! わたしは……!」
「魔王の居城へ立ち入ることができるのは、殿下しかいらっしゃらないのですから」

アルドリドはさらに言い募ろうと口を開いたが、思い直して胸を押さえた。

「…………そう、だな……そうしよう。わたしは先に休ませてもらうとしよう……」

アルドリドはおぼつかない足取りで歩き始める。その後をジャスティンが続く。
明日の決戦に沸いているのか、兵士たちの笑う声は明るい。ジャスティンが顔をしかめた。

「あいつら、すでに勝った気でいるのか……申し訳ありません殿下、よく注意しておきますので」
「いや、いいんだ。……明日に備えて士気を高めるのも必要だろう」

ジャスティンが天幕まで送るというのをそれとなく断り、アルドリドは外套の胸元でかき合わせた。

「殿下!」

おのれを呼ぶ兵士の声にアルドリドは足を止めた。

「殿下は我々の……いえ、ハインラインに生きるすべての民の希望です!」

アルドリドは思わず目を閉じる。

「我々は魔王の居城に入ることはできませんが、出来うる限りの援護をさせていただきます!」

アルドリドは目を開け、おそるおそる振り向いた。
篝火に赤く照らされる若い兵士の顔には喜びが満ちあふれている。アルドリドの勝利を信じ切って、欠片ほども疑っていないのだろう。
ハインラインに生きるすべての人間の希望を担う王子にふさわしい笑みを浮かべ、アルドリドはやわらかく言った。

「ありがとう。わたしが背後を気にせず戦えるのは、他でもないきみたちのおかげだ。どうか明日もわたしに力を貸してほしい」
「はい! 殿下!」

これ以上は耐えられない。アルドリドは片手を上げ、踵を返した。
兵士たちがおのれを賛美する声と、それを諫めるジャスティンの声を背後に、アルドリドは足早に立ち去った。

▽▽▽

木立や天幕の隙間を埋めるように星が瞬いている。アルドリドは自身の天幕へは向かわず、川縁に腰を下ろした。
兵士たちのあげる笑い声が、春先の冷たい夜風に乗って流れてくる。距離はそれほど離れていないというのに、今のアルドリドにはどこか遠い世界のことのように感じられる。
篝火を囲む彼らは、勝利と希望に満ちた明日が来ることを信じ切っているのだろうか。アルドリドは膝を抱えた。

はじめは、夢ではないかと思ったのだ。
魔王フィービーとの戦いはもう三度も繰り返されている。
魔王を聖剣で貫くたびに時は戻り、アルドリドが気がついたときにはもう、その手から勝利は失われている。
一度目は第三騎士団長ジャスティンとの合流を果たした当日。二度目はハインラインの王都ヒューストーンが陥落した翌日。そして今回は魔王との決戦の前夜だ。
月明かりを反射して輝く川面に情けない顔が映っている。アルドリドは水面に拳を叩きつけた。

「あと何回あいつを倒せばいいんだ……!」

水面が激しく波打つと、月のきらめきが砕かれたように光る。
生命の創造主たる女神クローティアが地上を去る際にハインライン王家へ授けたという聖遺物、聖剣アトロフォス。強大な力を持つ魔王を唯一打ち倒すことのできるという聖剣は、確かに魔王を一度ならず破った。
だが、その勝利の先へ進むことができないのなら、なんの意味も為さないではないか。
アルドリドは唇を噛んだ。
なぜ時間が戻るのか。なぜアルドリド以外の者はそのことに気がついていないのか。わからないからこそ苛立ちが募る。

やがて波紋が収まる。川がもとの静けさを取り戻したとき、水面によく見知った少女の顔が映っていることにアルドリドは気がついた。

「エルシー。もう寝たほうがいい」

アルドリドは振り返らずにその名を呼んだ。

「アルドリドこそ」

エルシーが隣へ腰を下ろす気配がした。

「あのねアルドリド、明日のことなんだけど」
「…………魔王との戦いのことか?」

アルドリドは細く息を吐き出し、ようやくエルシーへ振り返った。
やわらかい桃色の髪、大きな金色の目、そして天使セラフであることを示す一対の白い羽。そのすべてが、夜闇を照らす光明のようだった。

「……あたしも……魔王のいるところまで一緒についていけたらよかったんだけど。ごめんね」
「そんなことか。気にするな」

魔王の居城たるエルフェイム城は、森の奥の湖に囲まれている。青い水を湛える湖に佇む白亜の城は外観こそ壮麗だが、聖剣を持つアルドリドでしか立ち入ることができないほどの禍々しい闇に満ちているのである。
けど、とエルシーが目を伏せる。

「あたし……あたしは、聖剣アトロフォスの守護天使なのに……女神様の声を聞くこともできないし……」

聖剣アトロフォスを守護するために女神から遣わされた天使であるエルシーは本来、女神クローティアへ祈りを捧げ、女神の声を王家に伝えなければならないのだという。
だが、エルシーは一度たりとも女神の声を聞いたことがない。どれほど祈りを捧げても、女神は沈黙したまま十五年の歳月が過ぎ――そして、王都陥落の日を迎えたのだ。
口さがない者たちは、王都陥落の原因はエルシーにあるとささやいている。天使たるエルシーの力不足こそが聖剣の威光を失わせ、妖精を増長させ、ついには魔王と呼ばれる存在を生み出すに至ったのだと。
それでも、とアルドリドはエルシーの肩をそっと叩いた。

「神託を受けられなくてもエルシーはぼくの姉妹のようなものだ。誰がなんと言おうと、きみはぼくの大切な人だ」

両親を失ったアルドリドにとって、生まれたときからともに過ごしたエルシーは、唯一残された家族にも等しい。

「ぼくは勝ってみせる。信じて待っていてほしい」

思いを言葉にすれば、胸の底から力が湧き上がってくる。アルドリドはさらに口を開いた。

「エルシー、きみがいてくれたから、ぼくはここまで戦えたんだ」

エルシーの瞳はいまだ不安げに揺らいでいたが、それでも小さく頷いた。

「…………うん。ねえ、アルドリド……」

エルシーは言葉を探すように視線をさまよわせたが、やがてアルドリドを見つめて微笑みを浮かべた。

「………………ううん、なんでもない。あたし、アルドリドが勝つって信じてるからね」
「もちろんだ。ぼくを信じてここまでついてきてくれたみんなや、志半ばで倒れた者たちに報いるためにも、ぼくは必ず魔王を倒す」

アルドリドはおのれへ言い聞かせるように強く言い切った。
魔王が何度も復活するのなら、何度だって倒せば良い。やがて魔王が力尽き、ハインラインの未来が明るい光に満ちるその日まで。
そう、今回こそ魔王を倒し、ハインライン王国に平和を取り戻す。それこそがアルドリドに課せられた使命なのだ。