歌が聴こえる。
甘やかな中にどこか憂愁を帯びる、澄み切った歌声が。
ウルリヒは手元へ落としていた視線をゆっくりと上げた。
海を渡る風は、潮の匂いとともに歌声を運んでくることがある。半人半魚の怪物、海に棲まうローレライの声だ。
ローレライの美しい歌声を聴いた者はたちまち魅了され、海底へ引きずり込まれてしまう――ルサーリー王国の人間ならば幼い子どもでも知っている言い伝えだ。
だが、しょせんは言い伝えだ。
白砂へ寄せる透明な海水は沖へいくにつれて青さを増し、左右にそびえる崖の切れ間で空と混ざり合っている。
高い岸壁にぐるりと取り囲まれた小さな入り江でウルリヒが一日の多くを過ごすようになったのは、いつからだっただろうか。王妃である母が亡くなった頃だったか。双子の王子と王女――兄王子ウルリヒと妹王女レオニーの王位継承を巡って、王宮内へ不穏な空気が漂い始めた頃だったか。
入り江で過ごすようになってからというもの、歌声を何度となく耳にしているが、ウルリヒはこうして地面に足をつけているし、そもそもローレライの姿を一度たりとも見かけたことはない。ローレライの歌がほんとうに滅びを招くのならば、ウルリヒは今ここにはいない。
傍らに佇む筏を見て、ウルリヒは思う。
もしローレライがほんとうにいるのならば、こんなにも美しい声を響かせるローレライは、ほんとうに醜悪な怪物なのだろうか、と。
王宮の書庫に立ち入った者がまず目にするのは、おどろおどろしく描かれたローレライの天井画だろう。
光差す青暗い海底にたゆたうローレライの画は、恐ろしくも幻想的だ。周囲の壁が青いのと相まって、ウルリヒはいつも、海の底にいるような気持ちになる。
「兄上」
突如、背後から声をかけられ、大げさに肩が跳ね上がってしまう。ウルリヒは反射的に背表紙を押しやって、振り返る。
「…………レオニー」
双子の妹レオニーが、探るような眼差しをこちらへ向けてくる。
「なにかお探しですか」
ウルリヒは、西日がまぶしいふりをして視線を逸らした。
「い、いや、別に……」
父王によく似たレオニーの目を見返すことができなくなって久しい。
心臓が妙な打ち方をする。息が詰まる。
「…………そうですか」
レオニーはもの言いたげにため息をついたが、結局なにも言わないまま踵を返した。
その夜ウルリヒは、大きな布を持って入り江へやって来た。
筏へ帆を取り付け、衝動のまま沖合へ出た。
凪いだ海面で、月光がきらきら輝いて揺れる。
ウルリヒは長いため息を落とした。夕刻に書庫で妹と出くわして以来、ようやくまともに呼吸をした気がする。そもそも、ああいうふうに執務以外のことで妹が話しかけてくるとは思いもしなかった。
ウルリヒは水平線へ視線を向けた。
海の向こうには、いったいなにがあるのだろう?
幼いウルリヒの問いかけに、母は寂しげな微笑を浮かべた。
「なにも。どこまで行っても海が続くの。この世界に残された陸地はこの小さなルサーリー王国だけなのよ」
「そうだよウルリヒ、ずっとずっと昔に、神様が全部海に沈めちゃったんだから」
懐かしい日々を追想する胸が軋む。あの頃は幸福な日々がずっと続いていくのだと、信じるまでもなかったのに。
文武両道で優秀な妹と、なにをしても妹に及ばない凡庸な兄。この世界に産声をあげたわずかな時間の差が王国の明暗を分けるのだとすれば進むべき道は一つしかない、ウルリヒはそう思わずにはいられなかった。
そのとき、ぱしゃん、と飛沫のあがる音がして、ウルリヒははっとそちらを見た。
ウルリヒが目にしたのは、月明かりにきらめく海面から上半身を出した、一人の少女。打ち寄せる波を重ねたように青い髪が、光る漣に揺れる。
「きみは……ローレライ? いつも歌っている、あの……」
少女は答えない。沈黙する二人を潮騒が包む。
「きみの歌をいつも聴いていた。美しい歌声の主に会えたらと思ってたけれど」
相手がなにも言わないのでウルリヒが言うと、彼女はかぶりを振った。
「…………美しくなどありません。……母が教えてくれました。わたしの歌は人間に破滅を呼ぶのだと」
いつか、哀しみを帯びても美しいその声が喜びに弾むのを聴けたら。ウルリヒの内へ、ふと一筋の光が差し込んだ。
「わたしは自分の力が恐ろしい。でも歌わなければ魔力が滞って死んでしまう。わたしはいつか人を海へ沈めてしまうかもしれない……あなたのことも」
突如閃いたその思いの意味がわからないまでも、確かなことが一つある。
「わたしはウルリヒだ。きみは?」
「…………レウシア」
「レウシア、わたしは、きみの歌が好きだ。きみの歌にずっと慰められていたよ」
優美な旋律に耳を傾ければ、ひととき苦しみを忘れることができた。それがどれほど得がたいものか、どうにか伝えたい思いでウルリヒはレウシアの手を取った。濡れた手の冷たさが染み入って、ウルリヒは我に返った。母や妹にも、こんなに気安く触れたことはないというのに!
謝罪してウルリヒが手を引こうとしたそのとき、レウシアがウルリヒの手をわずかに握り返した。
「わたし……」
レウシアの睫毛が震えて、青い瞳から涙の零れるさまが、月の光に照らし出される。
「あなたを見てました。あなたが……あの入り江で、いつも一人でいるのを……」
かつて母と妹が語ったことを忘れてはいない。
それでもウルリヒは、この小さな島国が世界のすべてではないと信じている。
渺々たる波の彼方には、ウルリヒの――そしてレウシアの居場所が、きっとあるはずだ。
第三十一回文学フリマ東京の無配折本と同一の内容です。