第40話 オアシスの町

元気づけようとしているのか、デシレーはしきりにリューディアへ話しかけている。

話すことを禁じられたリューディアの代わりに受け答えをするのはエルマーだ。嘘が露呈したときにうまく取りなすつもりだろう、ロモロは少し後ろから見守っている。

アサレラはフィロと並んで最後尾を歩いていた。配られた干肉の塩漬けを水で流し込むと、全身を覆っていた疲労がすっと消えていく心地がする。

「……あることないこと、よくあんなつらつらと言えたものだな」

隣を歩くフィロが身をかがめて、アサレラの耳元にささやきかける。

「けど、レヴィンに戻ることにならなくてよかっただろ?」

「……まあな」

「そうだわ、みなさん」

先頭を歩くデシレーが振り返ったので、アサレラとフィロはぎくりとする。

「あたしは踊り子なの。王都に着いたら踊りを見にいらっしゃい。きっと元気が出るわ」

デシレーが外套をはだけさせると、薄い布きれをまとった肌が露わになった。

ちらりと一瞥し、フィロは興味なさげに髪を払う。ロモロは硬直し、あからさまに距離を取った。エルマーは慌てふためいた様子で目を逸らす。リューディアはなにかを言いかけたようだったが、アサレラの言いつけを思い出したのだろう、開きかけた口を再び閉ざした。

「あら、みなさん奥ゆかしいのね。……聖者様、あなたはどう?」

呼びかけられて、アサレラはデシレーをまじまじと見た。

「それ、服なのか?」

やたらと露出した身体に貼り付く薄い布きれは、アサレラの感覚では服とは言えないものだった。

「ええ。れっきとした踊り子の衣装よ」

「そう……なのか。戦いには向かなそうだな」

なるほどどおりで戦いに不慣れだったのか、とアサレラは得心する。

「他には?」

「他に? そうだな……夜、寒くないのか?」

「……それだけ?」

「まだなにかあるのか?」

一瞬あっけにとられたような表情を浮かべて、デシレーは華やかな笑い声をあげた。

「そうね、あなたたちは聖者様のご一行だものね。いいわ、あたし負けないから。ラグナに着いたら絶対見に来てちょうだいね!」

いったいなんの勝負なのだろうか。聖者様なんて呼ばれていても、アサレラには知らないことがあまりにも多い。

――あとでフィロに訊いてみるか。あ、でも教えてくれないかもしれないな。ロモロさんとエルマーなら知ってるかな……。

そんなことを考えているうちに、砂漠の稜線の向こうから太陽が昇り、東の空に薄白い光が広がり始める。

アサレラは反射的に空を見上げた。次第に明るくなっていく空から、星々が一つずつ消えていく。青狼星の青い光は、膜を張ったように薄らいでいた。

 

それから何日か歩き続けたその夜、遠くのほうにかすかな青い光が見え始めた。

「見えてきたわ。あれが王都ラグナよ」

「あの青い光が王都なのか?」

「あれはオアシスよ。サヴォナローラ唯一のオアシスの周辺に冒険者たちが集まって拠点を作ったのが王都ラグナの始まりなの」

そうなのか、とアサレラは感心したように相槌を打つ。ロモロとエルマーがデシレーから距離を置き始めたため、彼女と会話するのはもっぱらアサレラの役割となっていた。リューディアは話せないし、フィロにはそもそも期待していない。

そうしてしばらく歩いていると、オアシスとその周辺に群れるいくつもの建物の影、それらを取り囲む木立の群れが見えてきた。

 

ようやく辿り着いた王都ラグナには、なじみ深いコーデリア、そしてこれまでの旅で見てきたウルティア、マドンネンブラウの町とはまったく異なる光景が広がっていた。

夜だというのに町の中は多くの人であふれ、賑わいを見せている。

煉瓦を積んだ建物や奇妙な模様の石畳、果ては行き交う人々の衣装まで、至るところに色彩豊かな石が敷き詰められている。もしかして、これがエルマーの言っていた魔鉱石なのだろうか。

そしてもっとも目を引くのは、町の中心に鎮座する巨大なオアシスだ。色とりどりの石と月明かりの輝きを受け、鮮やかに光っている。羽のような形をした大きな葉を茂らせた木々に囲まれているせいか、時折乾いた風が吹き渡っても水面は凪いだままだ。

「じゃああたしはこれで。みなさんのおかげで助かったわ」

先を行くデシレーが振り返り、優雅に礼をした。

「いや、おれたちのほうこそ」

「じゃあ、またね」

やがてデシレーの姿が完全に見えなくなってから、アサレラはリューディアの肩を軽く叩いた。

「もういいぞ、リューディア」

「んん……あ、あ、……ずっと黙ってたから、うまく声が出ねえや」

確かに、リューディアのよく通る高い声は、少しばかり低く濁っている。

「長い旅でしたね……」

ごほんごほん、と何度か咳払いをするリューディアの横で、疲れたようにエルマーが嘆息する。

「……おまえがレヴィンに行けない、なんて言うからだろう。急ぐ旅だと言えば、あの女も疑わなかっただろうな」

「し、仕方ないでしょう! とっさのことだったのですから……そもそも誰のためにレヴィンに戻れないと思っているのですか!」

「やめろ! ラグナに着いたんだからいいだろ、もう」

アサレラは、さっそく言い争いを始めた二人のあいだに割って入った。

二人分の鋭い視線が左右から突き刺さる。

リューディアはまだ声の調子を整えているし、こういうとき、ロモロはなぜか取りなしてはくれない。

「…………ごめんなさい。ぼく……言ってはいけないことを言ってしまいました……」

先に折れたのは、やはりというべきかエルマーだった。

伏せられた金色の目は、なぜあんなことを言ってしまったのか、という悔恨の光を帯びていた。

「ほら、フィロ。きみも謝れ」

黙りこくったままのフィロの横顔へ、それで終わりにしろよ、とアサレラは促した。

「……………………悪かった」

いかにも不本意そうではあるが、フィロはおのれの非を認めた。

いや、今にも舌打ちを漏らしそうだし、そっぽを向いているし、誠意がこもっているとはとても言いがたいが、謝罪は謝罪である。

やっぱりフィロとエルマーは性格が合わないな、別行動をするときも一緒に組ませないほうがいいか、いやでもいつまで経ってもそれじゃ困るな、しばらくは旅路をともにするんだし――なんて思考を巡らせていると、ふと視線を感じ、アサレラは考えをひとまず中断し、そちらへ向き直った。

「どうかしたか? リューディア」

「あのさ。あたし、兄貴のこと、あんま覚えてないんだけど。もしかしたら、アサレラみたいな感じなのかな……って思ってさ」

「……どうだろうな。確かにおれは母親違いの弟か妹がいたけど、名前も知らないし、たぶんもう死んでるし……兄の振るまいなんか、よくわからないけど」

そこまで言ったとき、アサレラはエルマーがこちらをじっと見上げていることに気がついた。

「……どうかしたのか、エルマー」

「……いいえ? なんでもありません」

エルマーが目を逸らす。なにか含むところがありそうな口調にアサレラは首を傾げた。

 

レヴィンでの経験を踏まえ、アサレラとエルマーとリューディア、フィロとロモロに二分して行動することになった。アサレラたちは山越えに必要なものの買い出し、フィロとロモロは宿の手配と情報収集である。

大通りでフィロたちと別れ、露店の立ち並ぶ中央広場へ向かう。背の低い二人は人混みの中にいると、あっという間に姿を見失いそうになる。

ふと、店先に吊り下げられた干肉が目に入る。

砂漠越えで食糧の備えは底をついた。ここで多めに買っておかなければならない。店を覗いてみると、他に川魚の燻製や堅焼きパン、乾燥フルーツもあったが、砂漠であるためかコーデリアと比べてずいぶんと高価だ。しかし、干肉だけで山を越えられるものだろうか。そもそも、滅亡したローゼンハイムで食糧を調達できるのかもわからない。

「あのさ、買うのって肉だけでもいいのかな」

やっぱり多少高くてもパンやフルーツも買うべきか、アサレラが振り返ってそう尋ねようとしたとき、エルマーは屈強な男たちに押し流されそうになっており、リューディアはどんどん先へ進もうとしていた。

アサレラは反射的にエルマーの腕を取ってこちらへ引き寄せ、空いた手でリューディアの外套の襟首をつかんで引き留めた。

「あ……アサレラ!? なにを……」

「リューディア、エルマーも、あんまりおれから離れるなよ」

きみたち二人は背が低いからはぐれると探すのが大変だからな、と告げれば、エルマーはあからさまにむっと顔をしかめる。

「あまり子ども扱いしないでください。ぼくはついこの前、十五歳になったのですよ」

「へー、じゃ、あたしと同い年か。誕生日、いつ?」

エルマーが答えた日にちは、秋の半ば――アサレラの誕生日の約ひと月後――だった。

「それって、あたしよりガキってことだよな?」

「なっ、なぜそうなるのです!? 同い年だと言ったばかりじゃないですか!」

「だって、あたしは夏生まれだし」

「さほど変わらないでしょう!」

むきになって言い返していたエルマーが、はっとしたように目を伏せた。

「いえ……そうですね。あなたの言うとおり、ぼくはまだ子どもです」

「んん? どうしたんだよ、急に」

「先ほど、ぼくとフィロの言い争いをアサレラが仲裁してくれたでしょう。フィロと話していると、どうしても感情的になってしまうことが多くて……」

確かにフィロとエルマーはよく言い争いをしている。王族を嫌うフィロと、王子として務めを果たそうとするエルマーではそりが合わないのだろうと思っていたが、それだけが原因ではないのかもしれない。

「いずれ王になる身として、感情を律さなければならないと、思ってはいるのですが……やはりぼくはだめですね……」

「別に、これからなればいいんじゃねえの?」

あっけらかんと言い切ったリューディアに、エルマーは何度か目を瞬かせた。

「最初からできる奴なんていないって師匠も言ってたし。だから戦い続けなきゃならねえんだって」

アサレラも頷いて、リューディアの言葉を補足する。

「感情的になったって、きみはすぐ反省したんだからいいんじゃないか? だいたい、さっきのはフィロも大人げなかったし」

「そうそう、それにエルマーはまだガキだもんな、しょうがねえって」

リューディアが笑いながら、エルマーの背中をばしばし叩く。

「しっ……失礼な! 数ヶ月しか変わらないという話をしたばかりではないのですか! あと痛い! あなた、力強いんですから、手加減を覚えなさい!」

とうとう堪えきれず、アサレラは笑い声をあげた。

むくれていたエルマーも、アサレラやリューディアの笑い声を聞いているうちに怒っているのがバカバカしくなったらしく、やがて呆れたように笑った。

結局先ほどの店で干肉と堅焼きパンと乾酪を買い、別の店で分厚い外套、それから丈夫なブーツやグローブを買い揃え、必要なものがあらかた揃ったところで、リューディアがあっと声を上げた。

「あ、なあなあ。髪紐買ってきていいか? こないだからすげー邪魔でさ」

言いながら、リューディアは風になびく金髪をうっとうしそうに背中へ払う。

「じゃ、おれはあそこで待ってるから。荷物は預かるから、二人で行ってこい」

アサレラはオアシスのほとりにある長椅子を視線で示した。

「ぼくもですか?」

「一人じゃ不安だからな。頼んだぞ」

ぱっと顔を輝かせたエルマーが、まかせてください、と声を弾ませる。

小柄な影が並んで遠ざかり、やがて人混みに消える。

荷物を抱え直し、アサレラは長椅子に腰を下ろした。風が吹き抜けて、葉がざわざわと音を立てる。

――一人じゃ不安なのは、エルマーもなんだけどな……。

どうやらエルマーは、アサレラが懸念しているのはリューディアのことだけだと思ったらしい。

エルマーは王宮育ちのわりに世間知らずなところがなくしっかりしているが、戦闘力には乏しい。リューディアは戦いにおいては非常に頼りになるが、自由奔放でどこか危なっかしい。

まあ二人で一緒にいればだいじょうぶだろうと、アサレラは視線を北へ転じた。峻険な山々の連なりが、夜の闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。

――あの山を越えれば、ローゼンハイム……。

雪と氷に閉ざされた大地のどこかに、アサレラの倒すべき魔王がいる。

未知の強大な敵と対峙するときを想像しても、不思議と恐怖はなかった。アサレラには勝たなければならない理由があるし、勝った後ですべきこともある。

――ずっとひとりで生きてきたし、これからもそうだと思ってたけど……。

長く抱いてきた復讐心を失ったらおのれを形成するものはすべて崩れ落ちると恐れていたが、こうして穏やかな未来に思いを馳せるのも、案外悪くはないものだ。

そんなことを考えているアサレラの頭上へ、ふっと影が落ちる。

エルマーとリューディアが戻ってきたのだろうか、と、アサレラはいつのまにか下がっていた視線を上げた。

フードをかぶった小柄な人物が、アサレラの目の前に佇んでいる。フードから覗く髪は青く、前髪の隙間からこちらを覗く瞳は金色だ。

「……エルマー?」

呼びかけてから、いや違う、と感じるよりも早く、アサレラは聖剣を鞘から引き抜いていた。

「久しいですね。……アサレラ」

少年とも少女ともつかない声でアサレラの名を呼ぶ人物が、静かにフードを外す。

エルマーによく似た幼い風貌。だがそこに、エルマーにある世界を憂う純真さや、王宮で生まれ育ったゆえの隠しきれない高貴さはない。

「……ジョンズワート……!」

そこにいたのは、まぎれもなく、魔人ジョンズワートだった。