薄紫色の髪がゆるやかに流れる背中とそれを追う小柄な背中が、突如として動きを止めた。
不思議に思いながらも二人に追いついて、アサレラはその理由を知った。
「……エルマー? 旅立ちの許可はもらえたのか?」
問いかければ、エルマーはええ、と言葉少なに頷いた。重荷が下りて気が緩んだのだろうか、達成感に輝く金色の瞳には少しばかりの疲れが滲んでいる。
アサレラは隣をちらりと見る。苦々しい顔でエルマーを見下ろしていたフィロは、なにも言わないまま再び歩き始め、エルマーの脇を通り過ぎた。
「あ、フィロ……! 宿はそっちじゃないぞ!」
エルマーと遠ざかっていくフィロを何度か交互に見やって、アサレラは結局フィロを駆け足で追った。
リューディアがエルマーへ、よかったな、と声をかけるのが背後から聞こえた。
ほどなくしてフィロに追いついたアサレラは、その肩へ右手を置いて引き留める。
「フィロ、さっきも言ったけど、おれたちの目的にはエルマーが必要で……」
周囲の通行人に聞かれないように小声で耳打ちすれば、重いため息がアサレラの語尾を遮った。
「………………わかっている……」
こちらへ振り返ったフィロは蒼白な頬を引き攣らせていて、怒っているというよりは――どこか怯えているように見えた。
それを目の当たりにしたアサレラの内へ、あんなことを軽々しく言うべきではなかったのかもしれない、という後悔がよぎった。
魔術士への差別がなくなれば、フィロもロモロも人の目から逃れて生活する必要がなくなる。エルマーがこの旅に同行することは、長い目で見ればフィロにもロモロにも利益をもたらすのだ。
けど、と、アサレラは空いた左手で聖剣の柄を握る。生まれ持った魔力のせいで父親ともども故郷を追われたフィロは、王族という存在を憎悪し、軽蔑し、そして恐れているのだろう。
「努力は、する……つもりだ」
「フィロ……いいのか? いや、おれが言い出したことなんだけど……」
長いあいだ抱え続けた激情がそう簡単には消えてはくれないことを、アサレラは身を以て知っている。
目的を成し遂げるために、おのれの理性を追い立てようと湧き上がる衝動を押さえつければいけないときは、もちろんある。
だが、未来のために今の気持ちに蓋をすることは、本当に正しいのだろうか。
そのとき、アサレラの肩へ軽い衝撃があった。
アサレラの肩を小突いたフィロは、笑っていた。
頑なに閉ざされていた花の蕾がわずかにほころぶような、そんな笑みだった。
「……おまえが言い出したことだからな」
言葉を忘れて目を瞬かせるアサレラへ、フィロはくるりと背を向けた。
「戻るぞ。……遅くなれば親父が心配するからな」
「あっ……ああ」
はっと我に返ったアサレラは、元来た道を戻るフィロを慌てて追う。
――フィロがあんなふうに笑うなんて、知らなかった。
夏に咲く花の色をしたフィロの後頭部を見つめながら、アサレラはそんなことを考えていた。
聖王都ドナウからレヴィンまではおよそ六日かかるでしょう、と、ドナウを発つ前にエルマーが言った。
冬が近いため日が落ちるのが早いし、新たに旅に加わったエルマーとリューディアは背が低い分だけ歩幅が狭い。旅程の配分を見直すべきだろうというロモロの助言もあり、一行は二日ほど余裕を持たせてレヴィンへ向かうこととなった。
日のあるうちに足を進め、日が落ちる前に野営の支度をし、夜に備える。そのわずかな合間にロモロから剣術の稽古を受ける。
そういったことが何度か繰り返され、森の中の開けた場所で野営をすることを決めたその夜。アサレラは初めてロモロに一太刀浴びせることができた。
――もちろん、瞬発入れずに手痛い反撃を受け、尻と背中をしたたかに打ち付けたのだが。
「す、すまない。つい力が入ってしまって……」
「いや、だいじょうぶ……です」
差し伸べられた手を取り、立ち上がりながらアサレラは応えた。
「以前よりも腕を上げたな、アサレラ殿」
「ロモロさんのおかげです」
鋭い突きを受け止めた左手はいまだにじんじんと痺れているし、背中や腰は痛みに軋んでいる。それでも、アサレラの心はいつになく晴れやかだった。
いつのまにか近くにいたエルマーが手巾を差し出したので、アサレラは礼を言って受け取り、額を拭う。近くの小川で濡らして絞ったのだろう、手巾はひんやりと湿っていて、熱を持った身体に冷えた感触が心地良い。
ふと隣を見ると、エルマーはロモロに――正確に言えば、細剣を携えたロモロの右手に視線を注いでいる。
「…………あの、アサレラ。ロモロは……」
「なあおっちゃん! 次はあたしとやってくれよ!」
なにかを言いかけたエルマーを押しのけ、リューディアが嬉々として戦斧を構える。ロモロは苦笑しながら、飛び道具は使わないでくれよ、と応えている。
夕闇の迫る空の下で、細剣と戦斧の打ち合う音が響き始める。
エルマーは深く考え込みながら、ロモロとリューディアの手合わせをじっと見つめていた。
それから魔物との戦闘は何度かあったものの、一行はつつがなくレヴィンに到着した。
昇りきった太陽の光に明るく照らされ、町には活気が溢れている。見たこともない木がたくさん生えているのは、サヴォナローラからの砂を防ぐためだろうか。
人目につくのを避けるためにマントのフードを被ったアサレラを見て、エルマーもローブの首元からフードを引っ張り出している。
「ここからは三手に分かれて行動しよう。フィロとリューディアは宿と隊商の手配。ロモロさんとエルマーは砂漠を越えるのに必要なものの買い出し。おれは国境越えの手続きをする」
おのおのの年齢――未成年だけだと相手に足下を見られるかもしれない――と人間関係を考慮した結果だ。
「じゃあフィロ、先に宿に行こうぜ! 五人だから、えっと……二人と三人に分ければいいんだよな?」
指折り数えるリューディアへ、アサレラは頷いて見せた。
「そうだな。空きがなければ大部屋に五人でもいいけど」
「……お、お待ちなさい!」
今にも大通りのほうへ駆け出しそうなリューディアの外套の裾を、なぜか慌てた様子のエルマーが掴んで引き留めた。
「まさか本当に二人と三人に分けるつもりではありませんよね……!?」
「え、ダメなのか? なんで?」
「なんでって……あ、当たり前でしょう!」
エルマーの言わんとすることはアサレラにも分からなかったが、このままでは一向に話が進まない。とにかく二人のあいだに入った。
「一人部屋は大部屋に比べると料金が高いんだ。王宮育ちのきみには窮屈かもしれないけど……今後のこともあるんだ。少しは慣れてもらわないと」
フィロとともにセイレムを発って、そしてカタニアでロモロと合流してからしばらくのあいだ、一人部屋を確保していた――フィロがアサレラとの同室を嫌がったし、アサレラも二人を信用していなかったためだ――おのれを棚に上げ、アサレラはエルマーに言い聞かせた。
「違います!」
エルマーが憤然と振り返る。
「一人部屋はリューディアです……! ぼくはあなたがたと同室でかまいません!」
てっきりエルマーが一人部屋を希望しているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「あたしが? ……なんで?」
リューディアの丸い目にまっすぐ見返されて、さしものエルマーは言葉を失ったようだった。だが、ためらうように視線をさまよわせたのは一瞬のことだった。
「あ……、あなたが女性で、ぼくたちが男だからです!」
「ふーん……?」
いまいち要領を得ない返事に痺れを切らしたのだろう、エルマーは再びこちらへ振り返った。
「アサレラ、ロモロ! ……フィロも、そう思うでしょう!?」
「そうだな……」
頷くロモロの傍らで、フィロはなにも言わなかった。
否定をしない、ということは、フィロからすればエルマーの主張が正しいのだろう。
「そう……なのか? おれ、教会にいた頃、ミーシャと同室だったけど」
「えっ!?」
四対の瞳が一斉にこちらを向いて、アサレラは思わずたじろいだ。
「こ……、子どもの頃の話……です、よね?」
そんな中、エルマーが意を決したようにアサレラを見上げる。
「ああ、十三年前の春だから……おれが六歳になる前だな」
あいつが何歳だったかは知らないけどたぶんおれと同じぐらいだろ、とアサレラが言えば、エルマーは明らかにほっとしたような笑みを浮かべた。
「ええ、そうですよね……! イーリス教には、男女七歳にして席を同じくしてはならない、という教えもありますものね」
そんな教えは知らないが、エルマーがあからさまに安堵しているため、とりあえずアサレラはそれを良しとした。
「なあなあ、そろそろ行こうぜ。日が暮れちまうよ」
「そうですね。ではフィロ、頼みましたよ」
「……おまえに言われるまでもない」
エルマーに応えるフィロの言葉はとげとげしいが、これまでのような敵意はなかった。
駐在の騎士に案内され、アサレラは町の代表者であるゲルツァーの住む館へ向かっていた。仲間たちと別れてすぐ騎士の駐屯所へ行ったところ、越境許可証を発行するのは町長のゲルツァーだと言われたためだ。
町の中心である中央広場を通り抜けようとしたとき、アサレラは奇妙な物を目の当たりにした。
それは、巨大な銀色の輪だ。
台の上にある輪は、恐らくアサレラの身長ほどの大きさだろう。輪の中心を貫くように交差する二本の棒が、天頂の日射しを受けてきらりと光る。
台そのものは、セイレム村の開けた場所にもあった、村長やたまに訪れていた神官が演説をするときに用いるものと似ているように見える。
だが、あの輪はなんだろう。
――いつか、どこかで見たような気がする。
燃える銀色の輪。
雨のように大地へ降り注ぐ炎。
頭の芯が、脈打つように痛い。
「聖者様、どうかされましたか?」
アサレラが足を止めたことに気がついた騎士が立ち止まって振り返る。
なんでもない、とアサレラは応え、騎士へ再び歩き出すように促す。
先を行く騎士の背へ、あれはなんだと訊けないまま、ゲルツァーの館は目の前に迫っていた。
入れ、と応えたのは男の低い声だった。
きっちりと整えられて清潔な室内の奥、窓辺に腰掛けて外を眺めていた中年の男が、振り返って目を眇める。
「聖者様。お待ちしておりました。レヴィンの代表者、ゲルツァーでございます」
事前にアサレラが来ることを知らされていたのだろう、取り出した越境許可証に文言を書き加え、判を押す手際は淀みない。
アサレラはそっとゲルツァーの顔を盗み見た。
年はおそらくロモロよりも上だろう。落ち窪んだ目の下に濃い隈があり、頬は痩けている。穏やかで人当たりのよいロモロと違い、厳格で近寄りがたい雰囲気だ。
ふと、ペンの動きが止まる。
ゲルツァーが視線を上げてアサレラを見る。
「……聖者様、…………実は……」
そのとき、慌ただしいノックの音がゲルツァーの語尾をかき消した。
「失礼いたします、ゲルツァー様」
入室してきたのは、先ほどとは別の騎士だ。
「何事だ。聖者様がいらしているというのに」
騎士が耳打ちをした途端、ゲルツァーの纏う空気が張り詰めた。
「…………わかった、すぐに向かおう。おまえは聖者様を外までお送りしろ」
立ち上がったゲルツァーの顔はひどく青ざめている。
「聖者様。申し訳ありませんが、火急の用件が入ったのでこれで失礼いたします」
「いえ、おれのほうこそ。忙しいところに来てしまってすみません」
許可証を手渡したゲルツァーは、痩せた身体を折り畳むようにしてアサレラへ深く頭を下げた。
「聖者様、必ずや……一刻も早く、魔王を殺してくださるよう、お願いいたします」
「は……、はい」
異様な重圧に押されるように、アサレラはぎこちなく頷いた。
ゲルツァーの館を後にし、アサレラは中央広場へ戻った。自ら振り分けた役目を終えた以上、ロモロとエルマーに合流するべきだろう。砂漠を越えるために必要なものはたくさんあるはずだ、人手は多いほうがいい。
「あの、おれ、人を探してて。オレンジの髪の剣士と、黄緑っぽい色のローブを着た子どもの二人組なんですけど」
近くの露店の店主に声をかけると、ああ、と店主が頷いた。
「その二人組なら東の広場へ行ったよ。男の子のほうが人酔いしたみたいでね、休める場所を探してるようだから教えてやったよ」
礼を言ってアサレラが立ち去ろうとしたとき、あの銀色の輪の周辺に人が集まっているのが見えた。
「あの、あれはなんですか? なんであの人たちはあそこに集まってるんでしょうか」
店主が身を乗り出して、アサレラの指さした先を見る。
「ああ。あれは贖罪の車輪だよ」
「……贖罪?」
「ゲルツァー様の館の一角に魔人審問の塔があってね。魔人の疑いがある者の審問をして、そこで有罪判決が下された……つまり魔人と見なされた者の罪を、あの車輪で贖うのさ」
ただならぬ響きに、嫌な予感が胸をよぎる。
「……どうやって?」
「興味があるのかい? あと少し滞在すれば見られるんじゃないかな。外国から来た魔人をさっき捕らえたばっかりみたいだからね。みんなそれを見に来てるんだ」
「いや……おれたち、先を急ぐ旅の途中……ですから」
背筋が冷える。
なにかよくないことが起こっている気がする。
だが、だからといってなにができるというわけでもない。とにかく東の広場へ行こう、とアサレラが踵を返そうとした、そのときだった。
「……いた! アサレラ!」
大勢がざわめく中でもよく通る高い声に名前を呼ばれ、アサレラは立ち止まった。
雑踏の中から、見覚えのある緑がかった金色が近づいてくる。フィロとともに宿と隊商の手配を行っているはずのリューディアが、人々のあいだをくぐり抜けるように駆けてきたのだ。
「た……っ、大変、なんだよ、アサレラ……!」
そこにフィロの姿はない。
「リューディア、きみ一人か? フィロは一緒じゃないのか?」
リューディアは流れる汗を拭おうともせず、なにかを訴えようとしている。だが、荒い呼吸がつっかえてうまく喋れないようだ。
アサレラが腰に下げた水筒を差し出すと、リューディアはその中身をごくごくと飲み始める。飲みきれなかった水が口元からこぼれ、汗とともに滴り落ちる。
「落ち着いたか? それでリューディア、なにがあったんだ」
飲み終わったのを見計らいアサレラが尋ねると、リューディアは叫んだ。
「フィロが――フィロが、魔人審問所に連れて行かれちまったんだ!」