「……では、魔王パトリスがこのファウストの町に一晩宿泊したというのは事実なのですね?」
「は、はい……も、申し訳ありません、まさか彼が……いえ、あの者が魔王パトリスだとは、微塵も思わず……」
「無理もねえ、パトリスは見てくれだけなら俺たちと変わらねえ……人間そのものだからな」
ちらりとこちらを見るエステバンの視線を避けるように、アサレラは空を仰いだ。
厚い雲が太陽を遮り、昼間だというのにどこか薄暗い。今にも雪が降り出すかもしれない。
冷えた風が吹き付けて、露店の脇に固められた雪が白い花びらのように舞い上がる。
思えばずいぶんと遠くまで来たものだ。故郷では今頃、彼女が好きな白い花の蕾がほころび始めているだろう。エルフリーデは元気にしているだろうか――。
「パトリスさま!」
背後からあがった女性の声に、アサレラははっとした。
足が竦む。胸の底がざわめく。
聞こえなかったふりをして、すぐにこの場を立ち去るべきだ。
だというのに振り返ってしまったのは、パトリス――弟の名を呼ぶその声が、あまりにも切実で、どこか甘やかだったからだろうか。
「……あなたは…………聖者、さま……」
こちらを見るその目が驚愕に見開かれたかと思うと、みるみる哀しみの色が浮かぶ。
背中を覆う濃紺色の髪。金色を帯びた茶色の瞳。
ひどく嫌な予感がする。
「お願いです! パトリスさまを助けてください!」
無意識に動かした右手が、聖剣の柄へ触れる。
「あの方は傷ついているだけなのです、わたしは……わたしには、パトリスさまを救うことはできなかった。ですが聖者さま、あなたならきっと……!」
わずかな希望を見出してこちらへ詰め寄る彼女を、そしておのれの内へ沈む後悔をはねつけるように、アサレラはつとめて固い声を出した。
「……わたしには、パトリスを救うことはできません」
「なぜですか!? あなたはパトリスさまの……!」
「グレートヒェン!」
見かねた町民たちが、グレートヒェンと呼ばれた女性を引き剥がす。
グレートヒェンは涙に濡れた瞳でアサレラを睨んだ。
「パトリスさまはあなたのせいでっ……聖者さま、あなたが彼を魔王にしたのです!」
「まだ言うか、グレートヒェン! 悪魔に魅入られた娘め!」
引きずられていくグレートヒェンの声が遠くなり、やがて聞こえなくなるまで、アサレラは動けなかった。
「聖者様、申し訳ありません……! あの娘は悪魔に魅入られまして、その……わたしどもは無論、聖者様を信じておりますので」
「…………ええ」
やっとそれだけを返すと、アサレラは重いため息をついた。
「アサレラ殿……」
「行きましょう。……わたしたちの使命は、パトリスを討つことです」
気遣わしげなヴァーレンティーンの視線を振り切るように、アサレラは踵を返した。
今度は意識して、女神イーリスより賜った聖剣レーゲングスの柄を握る。
「……おれに、パトリスを救えるわけがない」
ぽつりと落ちた言葉を踏みつけるように、アサレラは進む。
そう、グレートヒェンの言ったことは間違っていない。
パトリスが魔王となったのは、おのれが原因なのだから。