冷えた風が濡れた身体を突き刺し、冷気が骨まで染み入る。
だが今、アサレラの背筋が震えるのは、そのためだけではなかった。
「…………ローゼンハイム…………」
「ローゼンハイムの記憶は、オレにはないがな」
「……それは……生まれてすぐ、追放されたから、なのか?」
少しの間を置いて、そうだ、と答えるフィロの声はどこまでも平坦で、体温を感じさせない。
「どうして……だって、きみは」
魔術士の国たるローゼンハイムの出身なら、なぜ魔力を持つという理由で追放されたのか。なぜあの日、ローゼンハイムへ行く――いや帰ることを了承したのか。そしてなぜ、フィロはおのれの身に降りかかった災厄を、まるで他人事のように語るのか。
渦巻く疑問は言葉にならず、アサレラの内で旋回する。
「……アサレラ。おまえはあのときオレたちに、魔術士が迫害されない未来のために力を貸せと言ったな」
重く垂れ込める雲の合間からきつく射し込む夕日に照らされ、フィロの頬が滑らかに光る。精緻な造り物めいて美しい横顔から感情が窺えなくても、その胸の裡にさまざまな情動を秘めていることを、アサレラは知っている。
「以前のオレなら、どうでもいいと切り捨てていただろう。……オレには親父しかいなかったし、親父がいればそれだけでよかった。たとえそれが……オレたちの未来を閉ざす行為だったとしても」
だが今、フィロとロモロはアサレラとともにある。
「日の当たる場所でみんなと生きるのも悪くない、オレの魔術で町を救えたのは嬉しい、そう思ったのは嘘じゃない。…………だが、それ以上に……」
再び、強い風が吹き付ける。
舞い上がる雪片が夕映えを照り返してきらきらと輝くさまは、サヴォナローラの砂漠で何度も仰ぎ見た星々に少し似ている。
「ローゼンハイムは滅びた。親父を苦しめた奴はもうどこにもいない。それを目の当たりにすれば、……過去を忘れられるだろうと……」
「忘れられない」
西へ視線を転じれば、今まさに太陽が地平線の果てへ没してゆくところだった。
「すべてを忘れるとしたら……それは、自分が死ぬときだ」
外れそうになるフードを押さえつけながら、アサレラは目を眇めて落日を眺めた。
鈍色の分厚い雲、その隙間からわずかに覗く空、荒々しい山肌を覆う雪。目に映るすべてが燃えるように赤い。
「きみには言ってなかったっけ。おれときみが初めて出会った場所……あそこは、セイレム村は、おれが生まれた場所だ」
そう、セイレムでフィロと初めて出会ったあの日も、こんなふうに夕日がすべてを赤く染め上げていた。
「…………なぜ」
軋むような足音は、フィロがこちらへ近づいてきているためだろう。
「あのとき、おまえはなぜ……あんなところにいた」
「確かめたかったんだ」
アサレラの視界の端で、ゆるやかになびく長い髪が残照に縁取られ、炎のように揺らめいている。
「セイレムが滅びたこと。あいつらが死んだこと。……確かめずにはいられなかった。だからオールバニーからドナウへ行かず、セイレムへ向かったんだ」
フィロへ向き直り、その瞳をまっすぐ見据える。
「おれは、……ほんとはおれは、セイレムが滅びた日に一度戻ってるんだ。……家族……を、殺すために」
わずかに瞠られた碧い両目に、薄い光が灯る。
厚い雲に覆われた上空でも今ごろ、あの青狼星は輝いているのだろうか。
「聖剣を引き抜いても、オトマー王やミカヤさんからアデリス……母のことを教えてもらっても、もう割り切るべきだってわかってても……ときどき、少しだけ、どうしようもなく、叫び出したくなることがある」
ふと、右手の甲に軽い衝撃があった。
無意識に動かした右手が、腰に下げた聖剣とぶつかったのだ。
「アデリスはおれたちを置いて消えた。ロビンはおれを顧みなかった。コートニーはおれを虐げた。村人たちは見て見ぬ振りをした」
左手を伸ばし、聖剣の柄にそっと触れる。
途端、冷え切ってとうに感覚を失ったはずの指先が、妙な熱を帯びる。
「……それぞれ事情があった。仕方がないことだった。ちゃんとわかってるんだ……頭では」
それでも今、長年溜め込んできた思いが、理性でずっと抑え付けていた本音が、胸を突き抜けて溢れ出しそうになるのを止められない。
「わかってる……! 過去に囚われるべきじゃないって、もうどうしようもないって、頭ではわかってる! でも……けど、おれはまだ」
「一度だけ」
雨音のような声がぽつりと落ちて、アサレラは反射的に口を噤んだ。
「親父がオレにローゼンハイムの話をしたことがある。あの夜、親父はすごく酔っていて……泣きながらオレに詫びた。本当ならオレは、ローゼンハイムで華々しい宮廷生活を送るはずだった。飢えることも凍えることもなく、やわらかな衣服を着て、みんなに傅かれるはずだった、と……。今、オレたちがこうしているのは、自分の力不足と、それから……ギュンターのせいなのだと」
「……ギュンター?」
今にも噴き上がりそうだった激情が、波が引くように消えていく。
「親父は……ギュンターとその娘を絶対に許さない、と。きっと今でもそう思っているのだろう。……だが、ギュンターもその娘も、もう死んだ。…………それなのに、いつまで親父は……」
聞き覚えのない名前に思惟を巡らせる。
フィロとロモロをローゼンハイムから追放した人物。とすれば、ギュンターというのはローゼンハイム公の名だろうか。それならば、二人がかつて――もしかしたら今も――王族を忌避していたこととも合致する。
では、その娘とは公女ヒルデガルトか。
――ヒルダ様は、公国の継承者であるのに魔術をうまく使えないご自身に心を痛めておられました。きっとヒルダ様も、ヒルダ様の護衛の魔術士も……もう、生きてはいらっしゃらないでしょう。
ローゼンハイムへ逗留した際の思い出を語るエルマーの声が、アサレラの内でよみがえる。あのときエルマーは、二度と戻らない日々を懐かしむようにさみしげで、どこか遠い場所を眺めていた。エルマーにとってヒルデガルトは美しい思い出の中にいる人物で、仇討ちを望むほどに親しんだ相手なのだろう。
「…………オレには、ローゼンハイムでの記憶がない。赤子だったから当然だ。……殺されかけて、捨てられて、追放されたこと。…………いっそすべてを覚えていれば、親父の怒りや恨みにも……おまえの気持ちにも、共感できたのかもな」
だが、ロモロにとってはそうではない。
「…………誰かを恨むのも、その恨みを捨てるのも、どっちもつらい。……だからロモロさんは、一人で抱え続けたんじゃないか」
おれの勝手な想像だけど、と付け加えると、吐息が白くたなびいて、こちらを見るフィロの輪郭が霞んで揺らぐ。
色彩豊かなラグナの光景が、唐突によみがえる。
あのときアサレラは、長く抱いてきた復讐心を忘れて穏やかな未来に思いを馳せるのも案外悪くはないものだと、確かにそう思ったし、その気持ちは今もアサレラの内にある。
――それでも、おれは……。
絶望、怨恨、憎悪、憤怒。一度芽生えた感情は、螺旋を描いて絡まり、縺れ、おのれの芯深くに根を下ろしてしまう。沸き上がる情動を抑えても、根が残る限り、またいずれ芽吹く。アサレラも、きっとロモロも、死ぬまで繰り返さなくてはならないのだろう。
「きみとロモロさんがローゼンハイムにいたら、七年前――魔王がローゼンハイムを滅ぼしたときに死んでたかもしれない。……だからよかった、なんて、言えないけど」
だけど、と、アサレラは一歩フィロへ踏み出した。
「おれは……、きみと会えて、よかったと思ってる」
見開かれたフィロの瞳に、やがてうっすらと水の膜が張り始める。
「ご……っ、ごめんフィロ、おれ、まずいことを言ったか?」
フィロが唇を噛みしめて視線を逸らすその理由はわからずとも、アサレラの発言でひどく傷つけてしまったのだということだけは明白だった。
「………………そうでは、ない」
フィロの呼吸が引き攣れて、声が揺れる。
「…………アサレラ、……オレは…………」
「…………あの」
あどけない声が控えめに割って入る。
それだけのことなのに心臓が跳ね上がって、つい大仰に振り返ってしまう。
「お話しの途中にすみません。調理が終わったから呼んできてほしいと、ロモロが……」
エルマーが携えるランタンの炎が、足元をほのかに照らし出す。気がつけば西の空に夕焼けの名残はすでになく、周囲には重い夜の闇が満ちていた。
フィロは目を伏せたまま、黙って踵を返した。
「あっ……」
アサレラが呼び止める間もなく、フィロの後ろ姿が遠ざかっていく。
「ごめんなさい。大事なお話でしたか?」
「いや……」
否定も肯定もしかね、アサレラは語尾を曖昧に濁す。
エルマーへ視線を向けると、先ほどよりも幾分か血色が戻っているのが見て取れた。
「待たせて悪かったな。さ、戻ろう」
「……ええ。せっかくのスープが冷めてしまいますものね」
ごまかすように促せば、どこか思うところのありそうな素振りで、それでもエルマーは頷いた。
野営地へ戻ると、雪を固めて作られた竈の中心からスープの温かい湯気が立っていた。
細かく切った干肉と豆を煮込んだスープに、焚火で軽く炙った堅焼きパン、それから乾酪が一片。戻ったアサレラとエルマーへ、ロモロは笑いながらそれらを回した。
さまざまな感情が錯綜し、縺れ合ってほどけない。
穏やかで親しみ深いその振る舞いに、旅のあいだ幾度も助けられてきた。だが、そのやわらかな微笑の裏に秘めていたものを思うと、これまでと同じ気持ちではいられない。
結局アサレラはなにも言えず、ロモロとエルマーのあいだへ腰掛けた。
手元の椀を覗き込む。とろりと白いスープから、温かな湯気とやわらかな匂いが立ちのぼる。椀の底へ差し込んだ匙を回すと、ひときわ大きい塊とぶつかった。
匙で掬い上げると、それは干肉だった。
「……なんだか、大きいな?」
が、他のものと比べてずいぶん大ぶりだ。
「あっ、それ、あたしが切ったやつだ」
リューディアはスープの中から干肉をひょいひょい拾い上げ、炙ったナイフで切れ込みを入れた堅焼きパンに挟んでいる。
真似をするのはなんとなくはばかられ、そのまま匙を口へ運ぶ。
「……噛み切りにくいんだけど……」
「本来ならもっとじっくり煮込んで、肉も豆もやわらかくしたかったのだが。この場所ではな」
「まあまあ、細けえこと気にすんなって! よく噛むと身体にいいって、師匠も前に言ってたぜ」
朗らかに笑うリューディアの右隣で、エルマーはパンを小さく切るのに苦心している。それを一瞥したのち、フィロが器用に細かく切った乾酪をスープへ落とす。
「……以前の野営で、エルマーが切った野菜よりはマシだ」
その声はいつもどおり淡々としていて、涙の気配など微塵もない。
「あー、確かにな! 今まで食った野菜の中で、あれが一番まずかったかも」
「加減がわからなかったんです! 野菜の皮剥きなんて初めてで……」
エルマーがナイフを引くたび、行儀よく揃えられた膝へパンくずがぽろぽろ落ちる。
「人参なんか皮剥きすぎて、すっげーちっちゃくなってたもんな」
「皮はふつう食べないものでは?」
「……芋は芽をえぐりすぎて、ひどくいびつだった」
「だって、芽は毒なのでしょう?」
「玉葱はすべて剥いで中身がなくなりそうになっていたな」
「ちょっと、ロモロまで!」
なごやかな笑い声が溢れる。
しかしアサレラはその輪に入る気にはなれず、黙々とパンをスープへ浸す。
やわらかくなったパンを飲み下しても、わだかまる感情は腹の底に重く居座ったままだった。