表通りと異なり、路地は細く狭い。人が二人並ぶのがせいぜいといったところだろう。分岐点はなく、身を隠せそうな場所もない。
気配を殺しながらも、アサレラは足早に進んでいく。
ほどなくして突き当たった壁面に、女性は逃げ道を塞がれ、追い込まれていた。
「姉ちゃんよ、謝るなら今のうちだぜ?」
「だ、誰が……」
女性はなおも強気な姿勢を崩さないが、内心で恐怖を抱いていることは、震える声で明白だった。
アサレラは足を止め、様子をうかがう。
三人の男はアサレラに背を向けている。それぞれ大剣や斧を下げているが、相手が戦士でない女性ゆえか、武器を構えようとすらしていない。
――誰もおれに気づいてないようだな。
相手が戦士であっても三人程度なら勝てる自負がアサレラにはある。いくら気配を殺しているからといってアサレラに気がつかないような相手であれば、なおさらだ。
しかし、非戦闘員をかばいながらとなると話は別だ。誰かを守って戦うことは容易ではないと、昨夜のキラービーとの戦いで痛感した。
それに、もし女性を人質にされたらやっかいなことになる。
男たちが油断しきっている今のうちに、片をつける必要がある。
アサレラは足音を立てぬよう、一歩、二歩と男の背後へ近づいていく。
「姉ちゃん、よっぽど痛い目に遭いてえようだな」
「さあて、どう落とし前をつけさせてやろうか」
アサレラに気がついた女性が、目を瞠る。
アサレラは一気に剣を抜いた。
一人の男の首筋に刀身をぴたりと押し当てる。
不測の危機にさらされた男たちのあいだに、動揺が走る。
「なっ、てめえ……っ」
「動くな!」
身動きのとれる二人が武器を抜こうとするのを、一喝して先手を打つ。
男たちは各々の武器へ手に伸ばしかけたまま、石のように固まる。アサレラの眼前の背中が、ぴくりとこわばる。
剣を突きつけたまま、アサレラは鋭いまなざしで二人の男を睥睨する。
「おまえらにかまっていられるほど、おれは暇じゃない。分かったらさっさと消えろ!」
アサレラの気迫に押されたのか、男たちは口汚く吐き捨てながら走り去る。
男たちの消えていく方向を見据えたまま、アサレラは剣を収めた。
「あ……ありがとう。助けてくれて」
か細い声が背中にかかる。アサレラが肩ごしに振り返ると、女性は壁へもたれ、へたり込んでいた。
恐怖から解放された安堵で気が緩み、力が抜けたのだろうか。ならば手くらい貸すべきかと案じ、アサレラは左手を差しだそうとする。
「あの、あなた……アシュレイ……よね?」
アサレラは、茶色の目を瞬かせた。
差し出しかけた左手が、中途半端な位置で留まる。
「………………人違いでは?」
アシュレイという名に聞き覚えはない。
「あなたアシュレイでしょ? 銀色の髪なんて何人もいないもの」
アサレラを見つめる目に強い光が宿っている。つい今まで恐怖に怯えていた人間のものではない。
ぞわりと、嫌な予感が背筋をせり上がってくる。
彼女と長く話すべきではないかもしれない。早くこの場を切り抜け、フィロを探しに行こう。
「人違いだ、おれはアシュレイという人じゃない、それじゃあ」
アサレラはマントを翻した。
「待ってよ!」
女性が勢いよく立ち上がり、アサレラの腕にしがみつく。
アサレラがぎょっとして振り払おうとするも、女性は思わぬ力強さで腕をつかみ、アサレラを見定めようとする。
「アシュレイじゃないなら、あなたは誰なの?」
この分ではアサレラが名乗るまで食い下がるだろう。
「…………おれは、……アサレラだ」
その場しのぎで適当な偽名を名乗るのも気が引けて、アサレラはため息とともに名を漏らした。
「…………アサレラ?」
女性の力がゆるむ。
「きみは、おれを知ってるのか?」
「なに言ってるのよ。わたしたち、タスポートの……エクシアイ教会で一緒にいたこと、あるじゃない」
「タスポート……?」
コーデリア中央の町の名は、なにかを思い起こさせる。
ふいに、アサレラの脳裏で、まばゆく差し込む白い日差しがバラ窓を透かして花のように浮かび上がった。
林道の先の小さな教会。床を磨くアサレラが顔を上げると、緑髪の少女が立っている。少女の顔は逆光に遮られて見ることができない。
――…………って罰当たりだわ。お父さんやお母さんがいたから、わたしたちはこうして存在してるのに。
アサレラをなじる幼い声が、どこからか聞こえてきた。
もしかして。アサレラは目の前の女性をまじまじと見る。
「……きみは、…………ミーシャ……か?」
「そうよ! やっと思い出したのね」
アサレラが短剣一つで故郷を飛び出したのは、養母コートニーが父ロビンの子を宿したと知ったときだ。
行く当てはなく生きる術も持たなかったが、それでも村を出たのは確信にも近い予感が走ったからだ。
このまま異母兄弟の誕生を悠長に待っていれば、自分は遠からず死ぬことになるだろう、と。
死の予感がアサレラの背筋を冷たく流れる。父と養母の手で殺されるのならば、自分の選んだ道の果てで野垂れ死ぬほうがはるかにマシだ。
かくして六歳のアサレラは、タスポートの教会堂の門扉を叩いた。
すでに剣士として一人で生きていくと決めていたが、簡単な計算と文字を身につけようと教会へ行ったのだ。
ミーシャはアサレラと同室だった少女だ。物心もつかないうちに両親が病死し教会へ引き取られ、神官を目指して修業していたはずだと、アサレラは細い記憶の糸を手繰り寄せる。
他人に多くを語ることをしないアサレラだが、同室でそのうえ同年代ともなれば、少なからず言葉を交わしたような記憶がある。
「やっと思い出したのね、アシュレイ」
笑顔を浮かべる目の前のミーシャに、聖典を手に嬉々として言い募るあどけない少女の面影が重なる。
――お父さんとお母さんへの感謝を捧げる歌を教えてあげるわ。練習して、秋の祭典で一緒に歌いましょうよ。
苦々しく縁取られたかつての記憶を振り落とすように、アサレラはゆるくかぶりを振った。
「おれは、アサレラだ。……アシュレイじゃない」
確かめるように、アサレラはおのれの名を口にした。
ミーシャは不審げに眉を寄せる。
「……どうして……聖王様の御名を名乗ってるの?」
ミーシャの疑問はいたって当然である。
マドンネンブラウの王族でもない一介の剣士が、かつて魔王パトリスを討伐した聖剣レーゲングスの使い手たる聖騎士――聖王アサレラの名を名乗っているのだから。
「きみに教える必要はない」
コーデリア城でトラヴィス王に名を尋ねられたとき、アサレラの脳裏に浮かんだのは空白だった。
記憶を失ったわけではない。
セイレム村で受けた仕打ちや一人戦い続けた長い日々のことはよく覚えているし、たったふた月を過ごしたタスポートのこともなんとなく思い出せる。
だが、自分自身の名前だけが思い出せない。
頭の中から、おのれの名を呼ぶ声だけが、忽然と消えたのだ。
返答に窮していると、トラヴィス王が一つ頷いた。
ではあなたは、聖者アサレラだ――と。
聖剣レーゲングスの継承者たる聖王アサレラになぞらえたのだろう。固辞したくとも名乗る名を持たないアサレラは、そのままアサレラとなったのだった。
「それより、どうしてきみがウルティアにいるんだ?」
さして知りたいわけではなかったが矛先を変えると、ミーシャの表情を暗い影がかすめる。
「タスポートが魔物に襲われて……神父様が子どもたちをかばって亡くなったの」
「魔物……」
「教会も壊れてしまったし……亡くなった子どももいるわ」
アサレラの胸裡に、セイレムの惨状が去来する。
ただれた肉塊、立ちこめる死臭、燃え上がる炎、黒い残骸。
頭の芯が、しびれるように痛い。
ミーシャはそっと目を伏せた。
「教会を建て直す資金がいるでしょ、それにみんなを食べさせないといけないし。だから年長のわたしがウルティアの闘技場で稼ぐことにしたのよ」
「……そうだったのか」
よくよく見るとミーシャの腰には短剣が下がっている。
護身用ならともかく、これで本格的に戦うには心もとないだろう。
「きみが戦うなら槍のほうがいいと思う。リーチや力の不足を補えるから」
「……それだけ?」
他になにか言うべきことがあるのか、とアサレラは考え、ああ、と得心する。
「おれもあまり余裕がないから、援助なら他を……」
「そういうことを言ってるんじゃないわ!」
怒気を含んだミーシャの声が壁や地面に跳ね返り、アサレラの頭の中で反響する。
アサレラは、がんがんと痛む額を拳で押さえた。
「だったらどういうことだ。……きみはおれに、どうしろと言うんだ!」
「どうもしなくたって、もっと……悲しむとか心配するとか……なにか、あるでしょ!」
「おれがそんなことをして、いったいなんになるんだ!」
アサレラが追悼の意を示し、悲しむ素振りを見せたところで、死んだ神父や子どもは生き返らないし、教会が元に戻るわけでもない。
感傷に浸ったところで過ぎ去ったことはどうにもならないと、ミーシャだって知っているはずなのに、なぜこんなことを言うのだろう。
ミーシャは無言でアサレラをにらみ上げていたが、やがて怒りに燃える瞳に涙が浮かんだ。
こぼれ落ちる涙の粒がきらりと光り、アサレラはぎょっとする。
「お、おい……」
アサレラは反射的にミーシャの肩へ手を伸ばしかけ、触れる寸前で思いとどまる。
「…………やっぱりあなたはアシュレイだわ。だってちっとも変わってないもの。あのときと」
宙をさまよっていたアサレラの手をのけ、ミーシャは憤然と踵を返した。
「変わってないわ。自分をおれって言うのも、昔と同じ……」
「……ミーシャ」
アサレラは壁へ右手を置いた。手袋をしていない素手に、ざらりと冷たい感触が走る。
「闘技場の戦士はさっきの奴らみたいなのばかりかもしれない。……それでもきみは戦えるのか?」
「戦うわ。……わたしが戦うしかないもの」
ミーシャは固い声で答え、肩ごしにアサレラへ振り返った。
「助けてくれたのは、ありがとう。……もう会うことはないでしょうけど」
かつかつとこだまする足音が、忘れ物のように取り残された。
アサレラの視線が、おのれの手へ落ちる。
――いったい、おれは、なにを……。
アサレラは、自失したように立ち尽くした。