第4話 二人旅の始まり

薄闇の中でさらに暗く、連なる山々の稜線が浮かび上がっている。
アサレラはマントをなびかせながら、足下にまとわりつくスライムの集団を斬って捨てた。
この辺りは夜になるとおそろしいほどの暗闇に覆われる。幸い今夜は月が出ているので、なにも見えないということはなさそうだ。
アサレラの左手には剣、右手にはランタンがある。

「あいつ、どこ行ったんだ……!」

男が去ってから時間を置かず追ったので、すぐ近くにいるはずだ。それなのにどこにも見当たらない。
苛立ちつつもアサレラは足を止めず、剣はスライムを次々に斬り落とす。
魔王によって生み出された魔物は多種多様であり、それぞれ生態や強さが異なる。スライムなどは最下級で、一匹であれば恐れることはない。
しかし弱い魔物でも数匹がかりであれば危険性は増し、毒性を持つ魔物も多い。もしあの男が襲われでもしたら、ひとたまりもないだろう。

そのとき、視界の端でなにかがぼんやりと光り、アサレラは思わず足を止める。

――あれは、なんだ?

優しげな光は、昔セイレムで見た蛍に似ている。
アサレラは、おのれの右手へ視線を落とす。ランタンの灯が反射しているわけではなさそうだ。

スライムの体液でねばつく剣身を振り払いながら、アサレラは光のある方向へ駆けた。

走り続けて、やがて光が大きくなると、ぶうん、と耳障りな羽音が耳朶をかすめる。
光を放つ薄紫の人影の周囲を、五つの小さな影が囲っている。
四対の薄い羽を持ち、毒々しい黒と深緑の装甲を纏う蜂の魔物キラービーだ。
キラービーは赤い複眼で男をぎょろりと睨みつけている。どうやら獲物と思われているようだ。

水が流れるように、背筋が冷たくなる。
一匹のキラービーが男へ飛びかかった瞬間、アサレラはランタンを投げつけていた。
がしゃん、という破裂音とともに、赤い炎がゆらめく。キラービーは哀れなことに火だるまとなり、墜落した。

「おい、無事か!」

「おまえ……」

キラービーが怯む隙に、アサレラは男を背後へと引き寄せる。薄紫の長い髪が月光を受け、きらきらと光り輝いている。

「きみは下がってろ」

魔物を見据えたまま、アサレラが低くささやく。
戦えないのであれば戦いの邪魔にならないところにいてもらわないと困る、という意図が伝わったのか、男はおとなしくアサレラの背へ回った。

「…………戦えるのか」

アサレラは、左手の剣を軽く上下に振って示し、燃え転がるキラービーをぐりぐりと踏みつけて火を消した。放置すれば山火事のおそれがある。
油断なく剣を構えるアサレラの視界の中心に、四匹のキラービーが居座っている。

キラービーはスライムほどではないが、魔物の中でも低級の部類なので、本来アサレラの敵ではない。
とはいえ戦う術のない者を背後に、空を飛べる魔物を相手にするのだから、用心に越したことはない。アサレラの頭上を越え男を狙うことも容易なはずだ。それにあの毒を受けたらやっかいなことになるだろう。

先手必勝だ、と、アサレラは剣の柄を握りしめる。
王都で装備品のほとんどを新調したが――聖者たる者がボロ着を纏うなと、トラヴィスに釘を刺されたからだ――剣だけは以前から愛用しているものをそのまま使用することに決めた。
家から持ち出した短剣にも振り回されるほど小柄だった幼いアサレラは、成長期を経て戦いに生きる者にふさわしい、とまではいかないが、少なくとも貧弱ではない体格へと育った。その後切り詰めながら資金を貯め購入し、いかなるときも肌身に添えていたこの剣は、アサレラにとっては思い出深いものだ。

耳へ突き刺さる不快な羽音が大きくなる。
瞬時に大きく踏み込み、アサレラは最も手前を漂っていた一匹を、一撃の下に斬り上げた。何年ものあいだ使い続けた剣は、アサレラの手にしっくりと馴染んでいる。
続けざまに繰り出される毒針をアサレラは半身を翻して避け、背肉ごと羽を斬り落とした。対空手段を失った二匹のキラービーが地面へ落下し、緑色の体液をどろりと流しながら地面でもがく。

残るは一匹。
さっさと終わらせてやる、と剣を握り直したとき、残されたキラービーが男めがけて毒針を突き出しているのが、アサレラの視界に飛び込んだ。
男はただ、襲いかかるキラービーを呆然と見上げている。

「この……バカ!」

剣で攻撃するには、あまりにも男と魔物の距離が近すぎた。とっさにアサレラは右手を突き出し、キラービーの胴を鷲掴みにした。
手の中から飛び出さんと暴れ回る魔物を、アサレラは渾身の力を込めて押さえ込む。剣を持つ左手は使えないし、剣を納める余裕はない。どうにか右手だけで魔物を弱らせなくてはと、アサレラは魔物を締め上げる。
右手の中の抵抗がだんだん弱くなっていく。緑色の体液がじわりと染み出してくる。
頃合いを見て、アサレラは手を離した。

「お、おい、無事か!?」

解放されたキラービーが弱々しく羽を動かしどこかへ逃げようとするのをアサレラは見逃さなかった。斜めに斬り捨てられたキラービーの頭部と胴が地面へ落下するのを尻目に、アサレラは男へ詰め寄った。
男はといえば、今しがた命の危機に晒されていたとは思えぬほどゆったりとした動作で裾を払った。

「おまえ……剣士か」

「は?」

アサレラは一瞬、その言葉の意味を図りかねた。
一拍置いてようやく意図を読み取れた、と同時に疲労感がどっと押し寄せた。

「…………きみはいったい、さっきまでなにを見てたんだ?」

明後日の方向へ飛ぶ返答に、労る気持ちも薄れていく。
たった今、この剣を振って戦っていたし、そもそもさっき剣を見せただろうが。
そう言ってやりたくなったが、ろくな返答はなさそうだ。
刀身に付着した魔物の血を払いながら、それにしても、とアサレラは思う。
この男は恐ろしくはなかったのだろうか、と。
戦う術のない人間にとって、魔物というのは恐怖の対象であるはずだ。危機に面しても危機を脱しても、彼の振る舞いは泰然としすぎている。アサレラだって、戦いがおぼつかない頃は、低級であっても魔物との戦いは緊張を強いられたものだ。

――ま、怪我もないようだし、いいか。

剣を鞘へ納める拍子に、手のひらを中心として緑色に染まった右手のグローブが視界に映った。間違いなくキラービーの体液である。

「買い換えないとダメだな……」

アサレラはため息を落とした。
少し考え、右手のグローブを外す。アサレラとしては左手の甲を隠せさえすれればいいのだが、左手だけグローブをはめているというのも妙なので、また新調しなければならないだろう。
アサレラの足下で、無残な姿となった五匹のキラービーが緑色の体液の中でぴくぴくと痙攣している。アサレラの視線が、その光景に吸い寄せられる。

――ロビンとコートニーも、こうして死んだのか。

アサレラがその手にかけるべき父と養母は死んだ。あの忌まわしい故郷セイレムとともにただれて焼け落ちたのだ。

「…………朝になってから発ったほうが、いいか」

静かな声が、アサレラの沈んでいた思考を浮上させた。

「あ、ああ……、そうだな。魔物も出るし、川にでも落ちたら大変だ。明かりもないし」

そこで一度言葉を切り、アサレラは意を決して再び口を開いた。

「おれは、ある目的でドナウに行かないといけないんだ」

「…………マドンネンブラウの聖王都ドナウか」

さすがに知ってるか、とアサレラは頷いてみせた。
アサレラは決して面倒見がよい性質ではないし、この男を純粋に心配しているわけでもない。
アサレラは男のためを思ってカタニアまで送ろうとしたのではなく、単に自分の罪悪感を減らしたいだけだ。このまま捨て置けば、彼は目的地へたどり着けず、探している人物にも会えず、ずっとさまよい続け、死ぬかもしれない。そう思えばすこぶる夢見が悪い。

ただ、それだけのことだ。

「…………おれは……、後味の悪い思いをするのは、ごめんだ」

これは、とんでもない方向音痴の非戦闘員に出会ってしまったアサレラの義務感だ。

「ドナウへ行くのに、どっちにしろカタニアは通る。だからきみを送るのもついでだ」

「…………そうか」

雨粒にも似た声が、二人のあいだにぽつんと落ちた。

「それにしても、きみの髪は夜でも……あ、そうだ」

アサレラは、言葉を切って男の顔を窺った。

「きみの名前を訊いてなかったな」

理由はない。ただ、なんとなく名前を訊いておきたかった。

「…………オレは、フィロ」

二人の頭上で、きらめく星が静かに瞬いた。