第七章 カーテンコール

アルドリドは大きく踏み込んだ。
迷いのない剣は直線を描き、暗闇を裂く。

――これで、すべてが終わる……!

閃かせた剣は悠然と佇むままのクローティアを捉える――はずだった。

「…………な……」

突然、身体を後方へ強く引かれるような感覚があった。

「い……いったい、なにが……」

クローティアの喉元へ突きつけた剣先はこぼれ落ちる光を反射させるばかりで、少しも前へ進まない。

「なにをしている! 早くとどめを刺せ!」

背後からフィービーの叫声が飛んでも、剣を握る右腕はぴくりとも動かない。
クローティアが右手をすっと掲げる。

「ローライン!」

エルシーの悲鳴が聞こえた瞬間、逆さまに飛ぶローラインと視線がかち合った。
吹き飛ばされたローラインの白い身体は闇の彼方を一番星のように彩り、そして消えていった。

「創造主たるわたくしに、創造物のおまえたちが逆らうことなどできる道理がないでしょう?」

冷厳たる二つの金色が光り輝く刀身へ映し出されるのを、身動きの取れないアルドリドは、ただ愕然と見た。

「天使、奴を援護しろ!」
「あなたに言われなくたって!」

背中へ熱と光の迫る気配を感じた瞬間、アルドリドの視界の端で炎と稲妻が閃いた。

「無駄だと言ったはずです」

稲妻はクローティアを貫く瞬間に消え、炎はクローティアを呑み込むことなく散じた。
見えない糸に強く引っ張られるように、アルドリドの身体はおのれの意志に反して反転する。
きらりと光る剣の先で、エルシーは蒼白の頬を強張らせ、フィービーはその全身から憤激を漲らせている。

「まずは、神の使いたる身でわたくしに逆らったしもべを刺してもらいましょう。その後は、そうね……自害でもしてもらいましょうか」
「そんなこと……、させるものか……!」

アルドリドは自由のきかない身体へ渾身の力を込めた。
だが、アルドリドの剣はゆっくりと、しかし確実にエルシーへ肉薄する。

「エルシー、逃げろ……!」
「だ、だめ、身体が動かないの……」

金色の髪を揺らすクローティアは、身動きのとれないアルドリドとエルシーへ目もくれず、その横を通り過ぎていく。

「フィー、もうすぐよ。もうすぐ邪魔者は消え、わたくしたちの世界が完成するわ。誰もあなたを害することのない、完璧な世界が」

フィービーのもとへ近寄ったクローティアの手が、フィービーの頬をそっと撫でるのが見えた。

「ふざけるな! きさまのお情けで生き長らえる世界など、おれには必要ない!」
「違うわ、わたくしはあなたを哀れんでいるわけではないの。わたくしはただ……あなたを愛しているだけ」

雷のように激しい声と甘えかかるような声が耳を打つあいだにも、アルドリドは見えない力に抗い続けた。わずかにも気を抜けば終わる、その重圧ののしかかる心を奮い立たせるように、アルドリドは剣を睨んだ。
鈍く光る剣先のすぐ向こうに見えるエルシーの目に怯えは微塵もなく、悲壮な覚悟の炎が静かに燃えている。

「アルドリド……あなたの手にかかるなら、あたしは……」

エルシーの姿が、あのときの――繰り返される時間の中で、解決の糸口を見出せないまま希望を放り投げようとしていたおのれと重なり、激情が腹の底から喉元へ突き上げる。

「エルシー、諦めるな! ぼくは決めたんだ、最後まで諦めないと!」

ぴし、と乾いた音を立て、剣に亀裂が走る。

「ぼくたちは――神の人形じゃない!」

決然と叫ぶアルドリドの造作を映す刀身が砕け散った。
足下へこぼれ落ちるいくつもの破片が光を反射し、アルドリドの目をまっすぐに射る。

「……バカな! アトロフォスが壊れるなど……」

狼狽に語尾を揺らしたクローティアがエルシーを押しのけ、いまだに動けないアルドリドの目の前に割り入る。

「神よ、あなたの思い通りにはならない!」
「いいえ、おまえたちの辿る運命は変わらないわ」

傲然とアルドリドを見下ろすクローティアにはもう、動揺の色は見いだせなかった。

「人間も妖精も天使も水棲も、すべての命を大地へ生み落としたのは、わたくしです。わたくしの自由にならない生命など、この世界に存在しないのよ!」
「例外が一つ」

対峙するクローティアの顔がはっと強張る。アルドリドの背後から凜然と響くのは、まぎれもなくローラインの声だった。

「わたしもおまえも世界が生み出した。おまえは世界を監視するために。わたしは世界の歪みを正すために」
「な、なぜ……おまえの力は奪ったはず……!」
「アルドリド王子に付けられた名が今、わたしの力となった」

視界を横切る光に思わず振り返ってから、アルドリドはおのれの身体に自由が戻ったことを悟った。
ローラインの指先から、まぶしい光がとめどなくあふれていく。

「わたしはローライン。栄光と勝利へ導く一筋の道となる者」

豊饒な大地の土色、みずみずしい葉の緑色、夜闇を照らす炎の赤色、遠く冴え返る海の青色、やわらかな光の金色。次々に生まれる光が豊かな色彩を帯びていく。
虹のように重なり合う色はやがて奔流となり、瞬く間にクローティアの全身を包み込んだ。
烈しい光の中に、一瞬、クローティアの金髪がくっきりと浮かび上がった。

「地上の者たちよ……これも、運命……なのでしょうね――」

やがて金色は周囲の光へ溶け合うように消え、ひときわ強い光を放った。
永遠とも一瞬ともつかない時間の果てに、視界を覆う光は収束した。そこにクローティアの姿はなく、ただ闇の空間がどこまでも続いているばかりだ。

「…………終わった……のか?」

長い夜が明けるように、薄明かりが白々と広がっていく。雁字搦めの糸のほどけた心に安堵と喜びが湧き上がる。これでようやく、長かった戦いに終止符が打たれたのだ。
突然、左の頬に重い衝撃が走った。

「あ……アルドリド!」

たたらを踏むアルドリドへフィービーがすさまじい力で掴みかかり、均衡を崩してどっと倒れ込んだ。したたかに打ち付けた背中が痛み、頬がひりつく。胸が苦しいのは、首を押さえつけられているからだ。

「やめてよ! いいかげんにして! クローティア様はもういないのに、どうしてまだ戦わなくちゃならないの!」

フィービーの振り上げた左手へしがみつき、エルシーが悲痛な叫びをあげる。
首を締め上げる右手を引き剥がそうと、アルドリドはもがいた。

「エルシーの言うとおりだ、神を倒した今、わたしたちが戦う理由などないはずだ!」
「きさまらになくとも、おれにはある!」

双眸を暗く燃やすフィービーがエルシーを振り払う。

「おれは強い! 誰よりもなによりも……アルドリド、きさまよりもだ! 今ここできさまを殺し、おれの真の強さを証明してやろう!」
「人を殴ることを、おまえは……、強さと呼ぶのか……!」

首へかかる力が抜ける。フィービーの身体を押しやり体勢を立て直すアルドリドへ、エルシーが寄りすがった。エルシーの震える身体をなだめるように、アルドリドはその肩へそっと手を置いた。

「アルドリド……」
「ああ……わかってる」

フィービーへ鋭い視線を投げかけようとして、アルドリドは気づく。

「…………フィービー?」

つい先ほどまでアルドリドへの殺意を漲らせていたフィービーは地面に手をつき、なにかに耐えるように蹲っている。

「くそっ……このまま……終わってたまるか……!」

荒い呼吸とともに切迫した掠れ声が漏れる。金色の長い髪が滝のように流れ、フィービーの顔は窺えない。アルドリドがフィービーの顔を覗き込もうとしたとき、轟然と地鳴りが響き、足下が大きく揺れた。

「な……なんだ!?」

よろめいたエルシーを支え、アルドリドは周囲に視線を巡らせる。ローラインは空中の一点を見つめ、ぽつりとつぶやく。

「クローティアが消えた今、神の領域は消えかかり、世界はあるべき姿に戻ろうとしている。歪められた歴史の狭間で生まれた者は消え、消された者は復活する」

どういうことだ、とアルドリドがローラインの視線を追うと、薄白い明るみの広がっていく闇の中に緑色の閃光が見えた。光はだんだん大きくなり、揺らめいて少年の人影をかたどる。

「おまえは……モイラ!? なぜここに……」

フィービーを新たな神と称した妖精モイラがアルドリドの前に降り立つ。
だが、どこか様子がおかしい。苛烈な瞳は濁り、髪は腐葉のようだ。

「正確に言えば、モイラの思念の集合体だ。存在を消された数の分だけの魔力と魂が重なり、一つになった怪物だ」

モイラが――モイラの思念の集合体が雄叫びをあげる。

「わたしにはわかる! 人間は大地を固め、水を汚し、森を切り、遠からず世界を汚染するだろう。妖精が世界を支配するべきなのだ!」

まだ戦わなくてはいけないのか、とアルドリドは拳を握る。アトロフォスを失った今、アルドリドに武器はない。それでも、やっとの思いで掴んだ勝利を、失うわけにはいかないのだ。

「フィービー王子など必要ない! 偉大なる力を得た今、わたしが傲慢な人間を滅ぼしてやろう!」

振りかざしたモイラの腕の先が、どろりと融解した。

「な、なんだ……これは……わたしの身体が、溶ける……!?」
「魔力の大きさに器がついていかないのだ。どれほどの魔力が上乗せされても、身体は妖精なのだから」

ローラインが淡々と告げるあいだにも、モイラの身体は指先から爛れ、崩れていく。

「お……おのれ……人間の好きに……させ……世界は……妖精……が……」

とうとうモイラの全身は原型を失い、呪詛一つを残したまま溶け落ちた。
モイラだった液体が流れ、アルドリドのつま先へ触れる寸前、地面が割れた。
目眩にも似た感覚がアルドリドの全身を包む。裂け目から空の青が覗き、風がごうと吹き上がる。
墜ちる、と血の気が引いた瞬間。白く輝く羽で羽ばたくエルシーがアルドリドの腰にしがみついた。
浮遊したのもつかの間、エルシーの細い腕ではアルドリドの体重を支えきれず、二人分の身体は急降下していく。

「エルシー、手を離せ! このままじゃきみまで巻き込んでしまう!」
「だめよ! 絶対離さないから!」

こうしているあいだにも、雲一つない青い空が上へ上へと流れていく。アルドリドはエルシーの拘束から逃れようと身をよじるが、エルシーはかつてないほどの力でアルドリドを強く抱きしめる。

「アルドリド、あたし絶対諦めないから! アルドリドがそう言ったのよ、最後まで諦めないって!」

エルシーの桃色の髪の先で、きらりと光が瞬いた。
固い地面を踏む感触が靴底に伝わる。
こわごわと視線を落とせば、四角い光が足下を照らしている。

「これは……」
「黙示録に記された膨大な歴史が、きみたちをあるべき場所へ導くだろう」

浮遊するローラインの開いた黙示録からばらばらと頁が外れ、光を帯び、アルドリドたちの足下で長く続くきざはしとなっていく。
ローラインが青色の滲んだ目を上向かせた。

「フィービー王子、きみはクローティアの歪めた世界の産物である以上、残念だが」

アルドリドははっとして上を見た。墜ちてきたフィービーの金髪が鼻先を掠めるよりも早く、アルドリドはフィービーに向かって手を伸ばした。

「フィービー!」

ローラインの言葉は揺るぎない事実であるとわかってはいても、神のさだめた運命を越えた今、しがらみを捨てて同じ大地で生きていくことはできるのではないか、そう願わずにはいられなかった。
指先が触れあう。若草色の双眸と視線がぶつかる。フィービーはかすかに唇をほころばせ――そして、アルドリドの手を拒んだ。
遥か遠い地上へ墜ちていくフィービーの姿は小さくなり、やがて見えなくなった。

「………………フィービー……」
「許せ、アルドリド王子」

降ってきた声がいやに優しく響き、アルドリドは驚いて視線を上げた。
半透明のローラインの向こうへ、雲一つない春の空の青が透けている。その瞳に哀しみの影が落ちている気がして、アルドリドはかぶりを振った。

「ローライン、あなたのせいではない。これは……わたしが背負うべきことだ」

かつてアルドリドは戦いの果てにフィービーを討った。正された歴史でフィービーが生きられないというのなら、その一因はアルドリドにある。
わずかな沈黙の末、黙示録のすべての頁が光輝くきざはしとなった。

「クローティアが消え、世界の歪みは正された。潮は引き、沈められた大地もいずれ姿を現すだろう。それには何百年、何千年もの時間がかかるかもしれないが、世界が正しき姿を取り戻す日は、必ずやってくる」

ローラインの静かな唇に、あの白い花のようなかすかな笑みが掠める。

「役目を終えたわたしも、まもなく消える。アルドリド王子、ありがとう。きみがわたしに付けた名がこの勝利をもたらした」
「あの名を思いついたのは、ローラインがあの場所にわたしを導いてくれたからだ」

勝利と栄光をもたらす月桂樹の在処への道筋。それが、ローラインの名の意味だ。

「これを受け取ってほしい。きみたちの進む道に光があらんことを」

ほとんど消えかかったローラインが差し出したのは、先端にはめられた白い宝玉を月桂冠が取り巻く杖だった。アトロフォスのような特別な力は感じられない。だがこの杖は、大陸に生きるすべての民を光ある未来へ導いてくれるだろう。アルドリドはそう思えてならなかった。

「ローライン、あなたのこと、忘れないわ……ありがとう」
「ありがとう、ローライン。そして……さようなら」

ほんの短い瞬きのあいだにローラインの姿は消えていた。まるではじめからなにもなかったかのように、空は青く澄み切っている。
ローラインの白い残映が瞼の裏から消えかかるころ、エルシーが口を開いた。

「アルドリド、あたし……クローティア様の気持ち、わからないわけじゃなかったの。それに、あの妖精の言ってたことも……」
「ぼくたちの戦いは……正義ではなかった。ぼくも彼らも、自分の信義のために戦い続けただけだ」

アルドリドは国民に報いるために、モイラは大陸の未来を憂うために、クローティアは愛した者を守るために、ローラインはひずんだ世界を元に戻すために。
そしてフィービーは――。

「…………魔王……フィービーにも、戦う理由があったのかな?」
「今となっては知る術もない。でも……そうだな、彼にもきっと、譲れないものがあったんだろう。だが……勝利したのは彼らではなかった」

人々の未来のために力を尽くすと決めた誓いが、戦いのさなかに散っていった者たちへの、せめてもの償いになれば、とアルドリドは思う。

「戦いは終わったけど……ほんとうの始まりはこれからかもしれないわね」
「そうだな……やるべきことはたくさんある。今までと同じか、それ以上につらい道のりになるかもしれないな」

それでも、と、アルドリドは傍らのエルシーの手を取った。
ともにいられるならば、この先でどんな困難が立ちはだかろうとも、アルドリドは歩いていけるだろう。

「帰ろう、エルシー。ぼくたちの、ハインラインへ」

アルドリドの守るべき者たちが待つ、愛しい祖国へ。