第五章 舞台装置

聖剣を通して伝わるのは、皮膚を破り、肉を削り、骨を割る感覚だった。
魔力の供給源を絶ち、時間の遡行を防ぐ。そのためにこの身体を完膚なきまでに叩きのめさなければならない。
急き立てられるように、追い詰められるように、ひたすらに剣を振るい続けて、右手の感覚が次第になくなっていく。
美しい皮膚は跡形もなく、肉の塊がやわらかな光に彩られる。
冷たい汗が背中を滑り落ちる。呼吸が上手くできない。胃の底でなにかが膨れ上がっていく。いっそのこと、なにもかも吐き出してしまいたい。
血の臭いがあふれ、辺りを満たす。
耐えきれずにとうとう膝をつけば、血だまりから飛沫があがった。
濃厚な闇の気配が足下からせり上がってくる。

――これがほんとうに正義なのだろうか……?

胸をかすめた思いを消し散らすように、おびただしい血を浴びた聖剣が美しい白光を放った。

次に目を開けたとき、森の中にいた。
手を引かれ、湿った落ち葉を踏みしめて進む。
近くに川があるのだろうか、そうそうと流れる水の音がする。

「……………………ごめんなさい」

意を決して口を開く。
足音が止まる。うつむいた頭上に視線が注がれているのを感じる。
ぱしゃん、と魚の跳ねる音が聞こえた。
繋いでいた手が離される。
冷たい風が吹き抜ける。身体のどこかが破けてなにかがあふれ出しそうになった、そのとき。大きな手が脇に差し入れられ、あっという間に目線が高くなった。

「もう泣くな」

光に遮られて顔は見えなくとも、その声はひどく優しい。

「おまえの魔力の高さは母さんに似たのだろうな」
「…………母様に?」
「そうだ、だから練習しよう。もうなにも失うことがないように」

胸の底をざわめかせる予感に蓋をして、うなずきを返す。他のなにを失っても、この手があれば、きっと生きていける。
新緑の隙間をくぐり抜けて降り注ぐ陽光のまぶしさに、目を眇める。

次に目を開けたとき、焦土に立っていた。
遮るもののない大地はひび割れ、残酷なほどに荒れ果てている。
つま先に子どもがうずくまっている。
見渡す限り乾ききった地面の中で、そこだけがわずかに湿り気を帯びている。

「これがティターニアとリャナンの子か」

子どもがわずかに身じろいだ。死んでいないことに安堵し、その金色の髪へ触れる。

「王子よ、御身に迸る強大すぎるその魔力……、人間殲滅のため、せいぜい役立てていただこう」

子どもが弱々しい力で手を振り払った。

「触る……な」

抵抗を試みる美しい造作を蔑んだ目で見下ろせば、胸の底で暗い欲望が渦巻くのを感じる。

「母体の腹を食い破って生まれた怪物を、いかにわが子といえど、愛せるはずもなかろうて」

金色がかった緑の双眸に絶望の色がよぎるのを、確かに見た。
うごめく暗雲の裾に青白い光がひらめき、雷鳴が轟いた。

次に目を開けたとき、闇の中にいた。
一寸先すらも見通せない暗闇はどこまでも静謐で、安寧で、そして孤独だった。
顔を覆う両手の指の隙間から涙が零れる。

「かわいそう」

幕のように垂れる長い髪のあいだから震える声が漏れる。

「あの子がかわいそう」

闇の先に、ぽつりと、小さな光が灯る。
凍りついた胸が溶けていく。この光を、なんとしてでも守り通さなければならない。

「あの子を救えるのは、わたくしだけ」
光が滲んだ。
はらはらと零れ落ちた涙は、やがて降りしきる雨のように足下へ降り注いだ。

視点が目まぐるしく暗転する。
川の流れに翻弄される一枚の木の葉のように、記憶と意識があちこちを往来する。
山の麓。
城の中。
湖のほとり。
朝。
昼。
夜。
目を閉じるたびに次々と入れ替わる景色は極彩色の濁流となり、おのれを形成するものを押し流す。

――わたしは……、ぼくは……、いや、おれ……は……?

流れていくものを掴もうと手を伸ばす。指先が触れた途端、輪郭が滲み、溶け出し、その境界線を失っていく。
おのれは、どこにいて、なにをすべきだったのだろうか――。

「アルドリド!」

ほとんど消えかかっていた意識が、その声で急速に形を取り戻す。
溶けたものは白い光を放ち、やがて二対の羽の生えた天使を形取る。それは、生まれたときからともにあったあの少女だった。
おのれが何者であるのかを、アルドリドはようやく思い出した。

アルドリドが目を開けると、安堵の笑みを浮かべたエルシーの顔が目の前にあった。

「アルドリド! よかった、気がついたのね」

額をくすぐる桃色の髪をそっと払い、アルドリドはゆっくりと半身を起こした。

「ありがとう、エルシー」
「……? なんのこと?」

首をかしげるエルシーに微笑を返し、アルドリドは周囲に視線を巡らせた。
いやに明るい水色の空、大地に広がる金色の花、そして一筋の道を作る白い花。いつか夢で見たものと同じ光景があった。

「ここ、どこなんだろう」
「わたしの領域だ」

アルドリドが口を開くよりも早く答える声が背後から聞こえて、アルドリドははっと振り返った。
あの白い髪の女性が立っていた。細身の身体に白いローブを纏い、白い装丁の巨大な本を両手に抱え、感情の窺えない白い瞳でこちらを見つめている。

「あなたがアルドリドの言ってた人ね。…………あなた、いったい……何者なの?」

探るように動くエルシーの視線にも臆さず、彼女は本を開いた。

「わたしは世界の強制力」

白一色で構成された彼女へ天上からの光が反射し、応えるように足下の白い花がまぶしい輝きを放つ。

「クローティアの幾度にも及ぶ再試行による世界のひずみがわたしを創り出した。黙示録を繙き、この世界をあるべき姿へ正すために」

再試行。その言葉がアルドリドの胸に突き刺さった。

「まさか……、今まで魔王を何度倒しても時間が戻ってしまっていたのは、女神クローティアの……!」
「そうだ」

エルシーが息を呑むのが、いやにはっきりと耳を打つ。
しんと静まりかえった空間へ、淡々と頁をめくる音だけがかすかに響く。

「………………でも……」

重い沈黙を破ったのはエルシーだった。

「でも、それじゃあ、クローティア様が、魔王に助力してるみたいじゃない!」

叫んだために語尾が震えるエルシーの声が、アルドリドの胸へ水のように染み渡る。
エルシーを見下ろす白い硝子のような目が、ふとアルドリドへ向けられる。

「アルドリド王子、きみの見解はどうだ。きみは今、黙示録に記された正しき歴史を、その目で垣間見ただろう」

アルドリドは、知らぬ間にこわばっていた唇を慎重に開いた。

「その前に一つ訊きたい。あれは……わたしが見たものは、ほんとうに起きた出来事で、それを、あなたが見せたのか?」

目まぐるしく変化する光景は、まだアルドリドの脳裏に焼き付いている。散らばっていたいくつもの事実を収束し一つの形を作ろうと、アルドリドは思惟を巡らせた。

「黙示録がきみに見せたものはすべて真実だ。クローティアは正史を歪め、おのれに都合のよい歴史を作り出そうとしている。その一環が神の力による時間遡行だ」
「アルドリド……いったい、なにを見たの?」

エルシーの双眸が不安げに揺れても、アルドリドの心臓は乱れることなく確かな鼓動を繰り返している。
複雑に絡み合った糸がほどけていくのを見るようなこの感覚の名は、理解だった。

「…………魔王は……魔王フィービーの母親は妖精の王女ティターニア、父親は……人間だった」
「え? けど……異種族間の婚姻は忌まわしいこととして禁じられてるはずよ」

人間と妖精が交わるとき世界は滅ぶと、確かにそう書かれていた。人間と妖精の混血である魔王によって戦争が勃発したことを思えば、それはあながち間違いではない。

「じゃあクローティア様は……禁忌を犯した神罰を下そうとしておられるの?」
「たぶん……違う。人間と妖精が交わることを禁忌と定めたのが神なら、なぜ神は……」

なぜ女神クローティアは、大洪水を引き起こしたのか。
なぜ女神クローティアは、聖遺物を持つアルドリドの勝利を阻み、何度も時を遡行させたのか。

「…………神は、魔王フィービーを……愛しているのか?」

恋をしたことのないアルドリドには、女神クローティアの思いがほんとうに恋着だったのかは断定できない。だが、遥か下の地上へフィービーという光を見出した女神クローティアの胸に芽生えたものは、愛だったのではないか。

「わたしに人の感情はない。ゆえに説明することはできない。神界へ赴き、直接クローティアに訊けばよい」

思わぬ言葉に後ずさった拍子に、ぐにゃりとやわらかいものを踏んだ。今の感触は、あきらかに固い地面や繊細な花ではない。
アルドリドが足元に恐る恐る目をやると、魔王フィービーがうつ伏せで倒れていた。

「どうして魔王がここにいるの!?」

魔王の背中を覆う金色の髪は黄金の花の群れにまぎれ、風景と溶け合っていたため、アルドリドもエルシーもまったく気がつかなかったのだ。

「わたしが呼び寄せた。神界へ行くのに必要だからだ」
「ま、待ってください。先ほどから、神界へ行くとは、いったい……わたしたちが女神のもとへ行くということ……なのか?」

天使であるエルシーはともかく、人間であるアルドリドが、いくらその手に聖剣アトロフォスを持つとはいえ、女神クローティアのもとへ行くことが許されるのだろうか。

「人間と妖精が交わるとき、世界が滅びる。そう聞いたことはないか」
「ええ、けどそれって……女神の神罰によって世界が滅ぶってことじゃないの?」

女性が白い指先を振る。ぽん、という音とともに透明なグラスが現れ、落下することなくその場に浮いた。
青い液体がグラスの底から湧き上がっていく。

「異系交配で生まれた子は神と同等の魔力を得る。器に見合わぬ魔力は身体の中で常に解放を叫び、その精神へ作用する」

こんこんと湧き上がり続ける青い液体は、瞬く間に透明なグラスの中を満たす。
グラスの向こうに見える彼女の瞳が青く透ける。

「母体であるティターニア王女も腹の子の魔力に耐えきれず死んだ。そのときリャナン・シーが必死にフィービー王子を救命しなければ世界は正しい形を保ち、わたしが生まれることもなかっただろう」

とうとう青い液体はグラスの縁を越え、滝のようにこぼれた。上がる飛沫が足下の草花を青く染める。

「ちょ、ちょっと、あなた、なんてこと言うのよ」
「わたしは事実を述べているにすぎない」

まったく揺らがない白い瞳が、アルドリドへ向けられる。

「人の身で神の力を得ると精神へ作用する。クローティアが妖精を滅ぼすために人間へ託した剣を持ち続けたきみなら、身をもって知っているはずだ」
「聖剣が……妖精を滅ぼすためのもの……? そんなはずはない! アトロフォスは人間と神の盟約の証であるはずだ!」

動揺で語尾を荒げるアルドリドへ、彼女はささやかな感情すら見せず、淡々と続ける。

「ハインライン家が持つその剣は、妖精を滅ぼすためにかつてクローティアが造ったものだ。天使は、剣が正しく妖精を滅ぼすためにその力を引き出し、あるいは抑制するため代々王家へ遣わされるのだ」

視界の端で光がちらつく。アルドリドははっとしてエルシーを見た。

「け、けどあたし、そんなの知らない……アルドリド、ほんとうよ!」

取り乱すエルシーを落ち着かせるように、アルドリドはエルシーの手を取った。

「わかってる」

てのひらの体温を意識すれば、心を覆いかけていた苛立ちが薄れていくのを感じる。アルドリドは深く呼吸をし、白い瞳へと向き直った。

「だが、なぜ女神は妖精を滅ぼそうとしたんだ?」
「わたしにはわからない」

つまり、真実を知るためには神界へ行かなければならないのだ。
神の棲まう場所。あの、深い闇に閉ざされた空間へ。

「話を戻す。神界へきざはしを架ける方法は二つ。天使がその命を燃やし尽くすか、あるいは、神の力を行使するか」
「……なっ」

平坦な声で告げられた言葉が、一瞬遅れてアルドリドの脳裏に染み渡る。
体温の感じられない瞳がエルシーを見る。

「きみの天使としての力は不完全だ。ゆえに、きざはしを架けることができるかわからない。だから神に等しい力を持つフィービー王子を連れてきたのだ」

アルドリドが口を開くよりも早く、彼女の白い手がグラスを掴み、フィービーの頭上で手首を返す。
青い液体がフィービーへ注がれる。短い悲鳴が上がり、金髪を乱してフィービーががばっと起き上がった。

「目が覚めたか」
「…………なんだ、きさまは……! あの胸くそ悪いものを見せたのは、きさまか!」
「わたしではない。黙示録だ。フィービー王子、きみの力が必要だ。黙示録が示した真実を見た今、きみは自分がすべきことを知ったはずだ」

フィービーの横顔が引き締まる。どうやらフィービーもアルドリドと同じものを見せられたようだ。

「………………いいだろう。きざはしを作り、神とやらのもとへ行くとしよう」

ふとフィービーがこちらへ振り向き、口元に歪んだ笑みを浮かべた。

「ただし、おれ一人でだ。きさまはその天使の命を使って来るがいい」
「き……きさま!」

かっと頭に血がのぼる。
聖剣が――いやアトロフォスが、アルドリドの激情に呼応し、声なき声を上げる。膨れ上がった怒りは憎悪となり、斬り捨ててしまいたい衝動が全身へ流れ込む。

「…………魔王。おまえは以前、運命を切り開くのは神ではない、と言っていた」
「それがどうした」
「運命を切り開くのはわたしたち自身だと、おかげで知ることができた」

腹の底で渦巻く怒りを追いやるように、アルドリドは意識的に息を吐く。

「わたしは……、神にさだめられた敗北の運命を変えたい。おまえも、世界を滅ぼす運命を越えて、同じ大地で生きていければ……」

フィービーは黙り込んだ。

「そのために、どうか、力を貸してほしい」

アルドリドは待った。
永遠とも思われる時間が流れ、ふいにフィービーが唇を開いた。

「どうしてもと言うなら、そうだな……額を地面にこすりつけて哀れにすがって見せろ」
「な、なんだと?」
「バカ言わないで! あなたなんかに、そんなことするはずないでしょ!」

駁論するエルシーへ、フィービーが冷ややかな目を向ける。

「ならば天使よ、きさまがそいつの道を作ってやればよかろう」

アルドリドは事を静観していたらしい女性へ振り返った。

「……神界へ行く方法は、ほんとうに他にはないのか!?」
「ない。フィービー王子がきみたちの同行を拒否するのなら、天使の命を使うしか方法はない」

起伏のない声にアルドリドはようやく悟った。黙示録を携え、真実を示す彼女は、敵でも味方でもないのだと。彼女にとってアルドリドは、そしてエルシーもフィービーも、世界のゆがみを正すために必要な駒でしかない。
だが、神界へ行かないという選択肢はない。なにもしなければアルドリドの歩みはここで永遠に巡るだろう。魔王フィービーに敗北するその日まで。

「アルドリド、こんな奴にそんなことしなくていいわ! ハインラインを滅ぼしたのはこの男なのよ!」

アルドリドは拳を固く握る。それではエルシーを犠牲にしなければならなくなる。

「その女のいうことが事実なら、天使の命はないだろうな」

嘲るフィービーの笑い声が、アルドリドの焦燥を急き立てるように耳朶へ突き刺さる。

「さあどうする? きさまはその天使を贄にして神界へ行くのか? それとも、このおれに泣いてすがるか?」

決まっている。神がさだめた運命を越え、その先の未来をともに歩むためなら、ひと時の恥辱など耐えてみせる。
アルドリドは膝をつき、額を地面につけた。

「頼む……! わたしに力を貸してくれ!」

焼かれたように全身が熱い。二度と拭えない屈辱の烙印を押されたアルドリドの胸底がわななく。

「両親を殺し、国を滅ぼした男に土下座までするのか、アルドリド! きさまには誇りがないらしいな?」

フィービーの哄笑が雨のように冷え冷えと降り注ぐ。
それでも、アルドリドは叫びを上げた。

「…………誇りならある! どんな目に遭おうと、わたしたちは運命に抗ってみせる!」

王子としての矜持とは、たとえどれほどの屈辱に甘んじても、守ると決めたものを守ることだ。それは決して保身をはかることではない。

「それはけっこうなことだ。だがわかっているだろうな? きさまはおれの力を借りるしかないのだぞ? そうとわかればもう少しものの頼み方というものを」
「もうやめなさいよ!」

割って入ったらしいエルシーの声が頭上へ降ってきて、アルドリドの視界が開ける。エルシーが顔を上げさせたのだ。

「ごめんね、あたしのために。でも……もういいの」
「エルシー、いったい……」

エルシーの指先がアルドリドの額をそっと払う。

「アルドリド、あなたを助けるために多くの人が犠牲になったって、あたし、前に言ったよね」

すっと離れていったエルシーを目で追う。なんだか嫌な予感がして、アルドリドは立ち上がった。

「あたしも、あなたの進む道の礎になるわ。アルドリド……あなたが矜持を捨ててでもみんなを助けたいと思ってるように、あたしも、アルドリドを助けたいと思ってる。たとえ……この命を燃やしても」
「よせ、エルシー!」

祈るように手を組むエルシーの羽が黄金に輝き、全身を包む炎となる。
足下で光が生まれる。
伸ばした手の先が光に呑まれていくのを、アルドリドは絶望の中で見た。