愛しい気持ちを照らす夕日

郁に手を引かれて、どれほど走っただろう。
目を射る西日に視線を動かす。沈みかかった夕日は稜線をくっきりと浮かび上がらせ、川の水面に金色の光をキラキラと落としている。すぐにでも越えられそうな低い欄干が鈍い光を放ち、わたしの焦りを追い立てる。もう、この橋の手前まで来てしまったのか。
夜が来てしまう前に、早く、この手を離さなければ。

「郁、待って」

とうとう橋の中央へ差し掛かったとき、わたしはようやく声をあげた。

「沙樹……?」

立ち止まった郁が振り返る。
残照を受ける郁の瞳は、わたしを守るのだという決意と、この先待ち受けるであろう苦難への不安で揺れている。
わたしは緊張でこわばる唇を開いた。

「…………わたし、は、行けない……」

わたしはこの橋を越えて行くことはできない。
郁を橋の先へ送り、わたしは橋の手前で踏みとどまる。そうすればなにもかも丸くおさまるのだから。

「そんな……沙樹、どうして!」

郁の目を見ることができず、わたしは目を伏せた。
政略結婚。
かつてのわたしが聞いたら、神聖ローマ帝国じゃないんだから、なんて笑い飛ばすであろう言葉。
小学校と中学校はもちろん、高校も地元の公立校を選んだわたしにとって、現代にもそんなことがあるだなんて、想像もしなかった。
生きる世界が違う、という言葉を、わたしは身をもって実感した。

「俺はずっと、自分を取り繕うことしかできなかった。沙樹に出会ってはじめて……本当の自分を知れたんだ」

三年前のあのときも、郁はわたしにそう想いを告げた。

「ありのままの俺でいることを許してくれたのは、沙樹だけだった」

目を閉じれば、今まで郁とともに過ごした日々の残映が瞼の裏に押し寄せる。
駅で待ち合わせをして、大学までのわずかな道のりを並んで歩いた。学部が違うから使用する建物は別だったけど、一般教養は同じ講義を受けた。泊まりの旅行は無理だったけど、デートにも行った。
郁の心の拠り所になれることが本当にうれしかった。隣にいられることがなによりの幸せだった。
だけど、と、わたしは目を開き、郁の手を振り払った。

「ありのままっていうのは、自分の思い通りに生きるってことじゃないよ、郁」
「今さら……あの窮屈な場所に戻れって言うのか! 自分を偽り飾り立てることしか考えない、虚栄心にまみれた奴らが支配する世界に!」

顔を上げる。郁の顔が泣き出しそうに歪んでいることに、わたしはやっと気がついた。
自由と自然体を知った今、郁は自分が育ったあの世界に戻ることを恐れているのだ。

「…………それじゃあ、京子さんはどうなるの」

京子さん。一度だけ会った彼女は外見だけじゃなく、なによりその性根が美しい人だった。あんなに優しい人を、婚約者に逃げられた可哀想な女性に貶めることはできない。
じり、と一歩後退る。
手の中に郁のぬくもりがまだ残っている気がして、わたしは拳を握った。
京子さんならきっと、郁の抱く恐れを癒やすことができると信じている。

「行って! ……早く!」

上げた叫び声が泣きそうに引き攣れて、胸の底がわななく。
こんなつもりじゃなかったのに。これじゃあ、郁はわたしを置いて行けるわけがない。

「沙樹!」

視界が滲んだと思った瞬間、息が止まるほどに強く、郁がわたしを抱きしめた。
郁の心臓が確かな鼓動を繰り返しているのが、互いの服越しに伝わってくる。

「ごめん、沙樹……!」

彼は今、抱きしめ返すことができないわたしの心臓の音を、同じように聞いているのだろうか。
愛しい気持ちを照らす夕日が、山の向こうへ沈んでいく――。

短編小説
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