「好き」も「嫌い」も許容するのが真の多様性である

どうも星月光です。

つねづね思っていることがあります。

好きなことの発信には別段気をつけないけど、嫌いなことの発信にはけっこう気を遣うものだな……と。

嫌いなものを公言すると「○○が好きな人もいるんだから嫌いって言わないで!」と言われることもありますが、

好きなものを公言しても「○○が嫌いな人もいるんだから好きって言わないで!」とは言われません。

でも、それっておかしくない?

 

「好き」も「嫌い」も同じカテゴリー

「好き」も「嫌い」も元を正せば人の感情です。

「好き」と「嫌い」の所属するカテゴリーは同じ。なので「好き」と「嫌い」の価値は同じであるはずです。感情の向いている方向が真逆であったとしても。

なのになぜ、「好き」の発信は良いものとされ尊ばれ、「嫌い」の発信は悪いものとされ憚られるのか?

多くの人が「好き嫌いはいけない」「喧嘩せずみんなと仲良くしましょう」と言われて育つからでしょうか?

 

なにかを嫌うことは悪なのか?

たとえば私が商業作品Aを嫌いだと言うと、なぜかそれを封じようとしてくる人がいます。

「Aは好評なんだから嫌いなんて言うな」「同シリーズのBが好きならAも受け入れるべき」「Aが嫌いなんてC信者だろ」と。

そして良かった点とともに悪かった点を述べると、「悪いところには目を瞑って良かったところだけ楽しめばいいんだよ」と……。

こんなとき、思うのですよ。「だからなんなんだよ」と。

私はこういう、「好きとしか言っちゃいけない、問題点を指摘してはいけない、少しでも批判すればアンチ」みたいな同調圧力が嫌いです。たとえそれが自分の好きなものであったとしても。

「素晴らしい作品Aを嫌うのは見方がなってないからだ。不届き者に真の楽しみ方を教えてやる」みたいなのは、正直言って余計なお世話です。そんなことをしなくたって各々が見たいように見ればいいのです。

教科書に載るような名作文学であっても好きな人と嫌いな人がいて当然です。

 

根拠のある「嫌い」は尊い

私は理由を伴った「嫌い」であれば尊重されるべきだと思います。「好き」の発信が尊重されるのと同じように。

なにかを嫌う心だって信念であり、おいそれと曲げられるものではないからです。

でもひたすら罵ったり、ただ単純に「○○は嫌い、なぜなら私が嫌いだから」と言ったりするのはあまり良くはないですね。

やっぱり何事にも根拠は必要です。

 

自分と違った価値観を受け入れられないだけ?

経験則から言うと、他人の嫌いを封じたがる人は他人の好きにも難色を示します。

相手の「好き」が自分の価値観に合わない場合、「○○が好きなんて変わってる」みたいなことを平気で言うわけですよ。

自分の価値観が普遍的なもので、それにそぐわないものは変わっている(≒おかしい)なんて、なんだか変じゃないですか?

「好き」も「嫌い」も許容するのが多様性だと私は思います。