午前零時のプレリュード

外へ出た途端、いやに冷たい風が吹き付けた。目も回る忙しさで汗ばんだ身体が急速に冷えていく。わたしは身を守るように肩をすぼめた。

「うう寒っ……!」

あっという間に冷え切った指先がうまく動かせず、鍵を取り落としそうになる。
空を仰ぐ。墨を流したように暗い空から、白いものがちらちらと降ってきている。一時間前、ゴミを捨てに外へ出たときは星も月もはっきりと見えていたのに、今は厚い雲の背後に隠れてしまったようだ。
どこかの寺から除夜の鐘が聞こえてくる。もう年は明けているのだろうか。
かじかむ手に息を吹きかけ、リュックからスマホを取り出す。二十三時四十七分。家に着く頃には日付が変わっているだろう。
店の裏手へ回り、従業員用の駐輪場へ向かう。ぽつんと取り残された自転車は風で倒され、うっすらと雪をかぶっている。
深く吐き出した息は白い。
手に持ったままだったスマホが震えた。SNSアプリの通知だ。グループトークのアルバムが更新されている。所属するイラスト研究会の年越し会兼新年会の写真だ。わたしも一応誘われてはいたが、シフトを変わったからと断った。オリエンテーションがあった午後、勧誘されるまま加入したものの、バイト先の人たちから暇な独り身と認識されているらしいわたしはシフト交換を打診されることが多く、お盆やクリスマスといった時期の集まりは毎回断っている。
自分がサークル内で浮いていることはわかっている。かといって辞めるとも言い出せないまま、二年生が終わろうとしている。

白く凍った吐息が目の前をたなびいて消える。
しんと冷えた夜道を照らす街灯がじりじりと点滅している。
音もなく降る雪がコートや髪へ落ち、溶けて消えていく。
どこか遠くから鐘の音が聞こえる。
もうすぐ年が明ける。
日付が変わるのなんて珍しくもなんともない、日常の出来事だ。バイト先は年中無休だし、今どき大晦日だからって休業する店のほうが少ないだろう。
けど、ふと思ってしまったのだ。わたしだけ年明けを迎えられず、このまま置いて行かれてしまうのではないか、と――。

「…………帰ろ」

自転車を起こし、サドルにうっすら積もった雪をさっと払った。

「上野先輩!」

いきなりわたしを呼ぶ声がして、驚いて振り返る。
その人物は、車止めに腰掛けてこちらをじっと見ている。明るい髪色、すらっとした体躯、無害そうな顔立ち。

「…………入谷?」

そうだ、サークルの後輩である入谷だ。

「……どうしてここに?」

今頃はサークルのみんなで楽しくパーティーをしているはずだ。それに、入谷はどうしてわたしのことをすぐにわかったんだろう。入谷と話したことは一、二回しかない。わたしが今、入谷の顔と名前がすぐに一致したのが不思議なほどだ。

「えっと、この辺の居酒屋でやってたんですけど、そろそろ二次会行こうって話になって……そんで、上野先輩のバイト先がここだって聞いて」

「ああ……でも、もう閉店したよ。だいたいうち、二次会って感じじゃないと思うけど」

わたしのバイト先は洋食系のファミレスなのだ。

「いや、そうじゃなくて……ああ、もう!」

立ち上がった入谷がずんずんとこちらへ歩いてくる。その勢いに押されて思わず距離を取ろうと後退りするが、自転車のせいでうまく下がれない。

「先輩! 年越し蕎麦食いましょう!」

「はあ? ……今から? もうどこも閉まってるでしょ」

「今からでもいつからでもいいじゃないですか! 行きましょう!」

入谷はわたしの自転車のハンドルを取り、勝手に押し出そうとする。

「ちょっと、入谷……!」

自転車を取り返そうとして、はっとする。
入谷のコートは見てわかるほどにしっとりと濡れている。ハンドルを握る指先は赤い。

結局わたしはなにも言えず、入谷に引きずられるように近くのコンビニへ行った。
進められるまま緑のたぬきを購入する。時間が時間なだけにイートインコーナーは使えなかったため、お湯だけ入れてもらって向かいの公園へ移動した。隅のベンチにはちょっとした屋根があるため、ズボンが濡れる心配もない。

――どうしてこんなことになったんだろう?

二人並んで出来上がるのを待っていると、どうしてもそう思ってしまう。
入谷はどうして一緒に年越し蕎麦を食べようなんて言い出したのか、そもそもどうしてわたしを待っていたのか。

「先輩って、かき揚げ先入れ派なんですね」

振り返ると、入谷はかき揚げを片手にこちらを見ている。……コンビニでお湯をもらったときからずっとそうしていたのだろうか?

「つゆが染み込んだほうがおいしいでしょ」

「サクサクの食感が好きなんで……なんなら別皿で食べるときもありますよ」

そうしているうちに三分が経過した。
出汁が利いた濃いめのつゆと縮れ麺の蕎麦がよく絡む。割り箸でかき揚げを持ち上げると、つゆを吸ってふわふわになっている。冷えた身体がぽかぽかと温かくなっていく心地よさに、わたしは息を吐いた。
半分ほど食べたところで、わたしはふと気になっていたことを口にした。

「ねえ、入谷。……どうしてわたしを待ってたの?」

入谷は視線をさまよわせていたが、やがて目を伏せ、ぽつりと言った。

「………………ずっと、先輩と話したかったんです」

わたしは箸を止めた。
うつむく入谷の横顔を、ほのかな街灯が照らしている。

「上野先輩が新入生勧誘用のチラシの絵を描いたって、部長に聞いたんです」

そういえばそんなこともあったな、と思い出す。誰もやりたがらなかったせいで、部長にどうしてもと押し切られたのだ。

「先輩ってなかなか集まりに来ないけど、年越し会は来るのかなって思ってて、でもいなくて、そんでここで待ってれば会えるかなって……なに言ってるのかわかんなんですよね、……すいません」

器を握りしめる入谷の指先が白くなっている。
どうせすぐに捨てられるものに労力を裂きたくなかった。学内のゴミ箱にあのチラシを見たとき、やっぱり断れば良かったと、そう思った。
でも、入谷はあれを目にとめて、覚えていてくれたんだ。
入谷を呼ぼうと口を開いたとき、風に乗ってどこかからわあっと歓声が聞こえてきた。
見れば公園の時計が十二時を指している。年が明けたのだ。
だが、わたしも入谷もまだ食べ終わっていない。

「これじゃ年越し蕎麦じゃなくて、年越しながら蕎麦じゃない?」

「いいじゃないですか。大晦日に蕎麦食べたことには違いないし」

夜の空気を揺るがすように、除夜の鐘が鳴り響いている。

「…………今度は、後乗せサクサクで食べてみようかな」

「え?」

「だから入谷も、先入れふわふわを試してみて。無理にとは言わないけど……」

「……上野先輩!」

入谷がいきなり大声を上げたため、思わず肩が跳ね上がった。

「今年もよろしくお願いします!」

「…………うん。今年もよろしくね、入谷」

わたしが新年を迎えることができたのは入谷のおかげかもしれない――なんて、そんなはずはないんだけど。それでも、そんなふうに思える嬉しさに、わたしは笑った。