どぜう

夏祭りでドジョウをすくった。
赤いヒレを水中で揺らめかせる金魚は確かに妖艶だが、わたしは他の女子たちの後追いをしたくはなかった。たとえこちらにそのつもりがなくても「歩美ちゃんの真似っこ!」などと囃し立てるに違いない。
会場の一角でドジョウをすくおうとするのは、少なくともそのときはわたしだけだった。女子ははじめから気味悪がって近づかなかったし、男子はいざドジョウの身に触れるとそのぬめりに怯んでそそくさと引き上げた。
ズボンの裾を捲り、靴下を脱ぎ、水の中に足を入れる。足元を泳いでいた一匹をえいやとつかむと、細長い身体は予想以上にぬめっていて、力を込めても手の中からするりと抜けてしまう。しかも思っていたよりも泥臭い。
わたしは子どもながらに功名心にとらわれていた。弱腰な男たちの二の舞になるわけにはいかない。なんとしてもつかまえてみせる!
結果としてわたしは水ヨーヨーでもスーパーボールでも金魚でもなく、ドジョウの入った袋をぶら下げて意気揚々と帰宅したのだった。

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さて、こいつをどうしようか。
ひとまず空いた発泡スチロールに水を溜め、その上でドジョウの入った袋をひっくり返す。
月明かりに照らされ、ドジョウが金色に輝く。
わたしの目的はドジョウをつかまえることであり、ドジョウを飼うことではない。金魚ならともかくドジョウでは母が嫌がりそうだ。そもそも隅とはいえ、ベランダに発泡スチロールを置いていては邪魔だろう。
明日、学校から帰ってきたら川へ放そう。
自分の運命を知らないドジョウは呑気に身をくねらせていた。

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「歩美ちゃん」

玄関で靴を脱いでいると、わたしを呼ぶか細い声が聞こえた。
一瞬母かと思ったが、母がわたしをちゃん付けで呼ぶはずもない。
まさか、不審者?
玄関の鍵は掛かっていたが、窓から侵入したのかもしれない。
拳の中で鍵を握りながら、息を潜めて部屋の中を見渡す。
人の気配はない。

「歩美ちゃん」

もう一度わたしを呼ぶ声。
わたしは足音を忍ばせて、声のする方向へ進んだ。
キッチンを越え、リビングを抜け、わたしはベランダへ続く窓をそっと開けた。

「歩美ちゃん」

窓の隙間から覗く。誰もいない。
いや、一人――もとい一匹がいた。

「……………………。ドジョウ……?」

わたしは屈みこんで発泡スチロールの中を見る。

「…………ドジョウ……が……わたしを呼んだの?」

そんなバカな。
唖然とするわたしとは裏腹に、胴長の生き物が答えるように水中をくねくねと泳ぐ。

「そうだよ」

とても信じられないが、ドジョウがわたしの名を呼んでいたのだ。

「歩美ちゃん、ぼくを救ってくれてありがとう」
「救ったんじゃなくて掬ったんだけど」

むしろ両手でつかんだ、のほうが正しい気がする。

「誰もぼくを救ってくれなかった。この粘液を何度呪ったかわからないよ」
「はあ……」

あいまいに相槌を打ってから、誰も、の部分に一拍遅れて心臓が高鳴る。

「歩美ちゃんだけがぼくを救ってくれた。きみの手がぼくの身体をとらえたとき、どんなに胸が躍ったか」
「そう……そうだよね! わたしだけが……」

なかなか話の分かるドジョウだ。みんな違ってみんないい、などと言いながら個性を殺すことを良しとする大人たちよりもずっと明確にわたしを理解してくれている。
このドジョウをつかまえられたのは、わたしだけ。
母が帰ってきたら、このドジョウを飼って良いか頼んでみよう。
わたしは図書館へ行くために区民カードを探し出し、家を出た。
もちろん鍵を掛けるのを忘れずに。

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すっかり日が暮れてしまった。
借りてきた本を抱えて玄関の扉を開けた途端、甘辛いタレを煮詰めた匂いがふわりと漂ってきた。
今日はすき焼きだろうか、と思いながらキッチンを覗くと、若草色のエプロンを身に着けた父が鍋をかき混ぜていた。

「おかえり歩美。今日母さんは遅いから俺が作ったぞ」

立ちのぼる白い湯気の中へ、かすかに泥のような臭いが混じっている気がする。

「なにそれ」

小さなテーブルに本を置きながら、わたしは問いかけた。

「どぜう鍋」
「…………どぜう」

わたしはなんだか嫌な予感がして、急ぎベランダへ向かった。
水を湛える発泡スチロールの中に彼はいない。

「浅草名物どぜう鍋。一回食べてみたかったんだよな」

鍋ってより汁だけどな、などと言いながら、父が小鍋をテーブルに置いた。
ドジョウのことをどぜうと呼ぶのだと、このときわたしははじめて知った。
だから食べた。
啜った汁は塩っぽい泥の味がした。