第28話 夜明け

声が聞こえる。

「…………この子の……前、考……て……れた……」

どこまでも続く闇は深く、重く、そして、少しだけ暖かい。

「本当に僕の……えた名……でいい………そう……の苦手な……きみも知って……だろ……」
「もちろんわたしも……考え……けど…………」
「…………確かに……きみが……産んで母親に……なら、僕は名前をつけて父……に…………」

二つの声が遠ざかったり近づいたりしながら、重なり合って反響するたび、周囲の闇が細かく震える。

「じゃあ…………という名前は…………だろう……」

そのとき、闇が大きく揺らぎ、次々と生まれていく波紋がほのかな光を放った。
光はだんだん大きくなり、ついに闇を呑み込んだ。

「………………きっと……この子の……行く先を…………」
「…………早く会いたいな……」

広がり続ける光の中、覆っていた膜が剥がれ落ちるようにして、声が明瞭な音となって降り注いだ。

「この子の名前は――」

 

 

「…………レラ殿……アサレラ殿!」

おのれを呼ぶ声が突如、アサレラを眠りの底から引き起こした。

「……ロモロさん?」

アサレラは瞼を押し上げ、声のしたほうへ視線を向けた。
周囲は蒼い薄闇に満たされ、朝の兆しは窺えない。ロモロの顔はよく見えないが、声の調子から、なにやら焦っていることはわかる。
起き上がろうと右手を地面へつく。ひどく四肢が重い。アサレラはやっとのことで半身を起こし、夢の名残をとどめて脈打つ心臓をそっと押さえた。
誰かがアサレラの名を呼んでいた。あれはロモロの声だったのだろうか?

いや違う、とアサレラは直前の疑問におのれで答えた。胸の底をざわつかせるあの声はロモロではない。それに、聞こえてきた声は二人分だったような、気がする。夢の輪郭はすでに消えかかっていたが、重なり合う声はいまだ残響となってかすかに息づいている。

「フィロがいない」

その言葉を聞いてから、その意味が頭の芯へ到達するまで、一瞬の間が必要だった。

「……えっ!?」

アサレラは跳ねるように飛び起きた。
半分ほど夢の中をさまよっていた意識が急速に現実へ引き戻される。
目が次第に闇へ慣れてくると、確かに近くで眠っていたはずのフィロの姿はなかった。

「今……水を汲んで、戻ったらいなくなっていたんだ、この辺りを捜したのだが、見当たらないんだ」

蒼白な頬を強張らせたロモロは、今にも死んでしまいそうで、思わずアサレラは右手でその肩を強く掴んだ。

「ロモロさん落ち着いてください! フィロは、水を汲みに行く前はいたんですよね!?」

ああ、とロモロが弱々しく頷くのを見て、だったら、とアサレラは手を放した。打ち付けた右肩の痛みはいまだに鈍く残っている。

「まだ近くにいるはずです。もしかしたら、目が覚めたからその辺りをふらふらしてるだけかもしれないし」
「そ……そうだな、わたしが冷静にならなければ……」

ロモロは少しばかりの平静さを取り戻したようだが、それでも落ち着かない様子で周囲を見渡している。
ああ言いはしたものの、アサレラも気が気でなかった。昨晩のことがなければ、暢気にフィロの戻るのを待つ気になっただろうが――。
どこからか鳥のさえずりが聞こえてくる。
じっとしているのに耐えかね、とうとうアサレラは踵を返した。

「おれ、向こうを捜してきます。入れ違いになると困るから、ロモロさんはここにいてください」

アサレラ殿、と背後から呼びかけられる声を置き去りにするように、アサレラは駆け出した。

 

 

しんと冷えた空気を切るようにアサレラは走った。
半壊した家屋や原型をとどめた建物が、藍色の薄闇の中に佇んでいる。そのどこにもフィロの姿はなかった。
町の外に出てしまったのだろうか。それとも――昨晩の盗賊の残党がいて、報復のためにフィロを拉致したのだろうか。
不意に足が重くなるのをアサレラは感じた。
確証はない。だが、ありえないことではない。
こんなことを考えていたって仕方ない、とにかくフィロを探さなければ。そう思いはしても不穏な胸騒ぎを抑えることができず、アサレラはとうとう足を止めた。
これだけ探しても見つからないということは、もしかして……拭いきれない不安が膨らんで、破裂しそうに心臓が痛い。

そのとき、つま先へ光が射し、光源を探すようにアサレラは空を見上げた。
東の空へ薄白い光が広がり、その果てで星がかすかに輝いている。夜明けが近いのだ。
フィロはきっと無事でいる。
根拠のない希望が湧き上がってくるのを感じる。アサレラはそれを確かなものにするべく、思いつくだけの理由を並べ立てた。

――もし盗賊どものしわざなら、おれたちに接触してこようとするはずだ。寝てるときならまだしも、起き出す時間になってからの襲撃っていうのもおかしい、昨日のことを知ってるなら魔術を使うフィロに手を出すのも変だ……それに、ロモロさんがいるのに、フィロがどこかへ行くはずない!

再び歩き出すために転じた視線の先で、アサレラは影を見た。明るみ始めた世界の中、そこだけがくり抜かれたように黒い。
呼吸を整え、アサレラはその名を呼んだ。

「…………フィロ」

フィロは振り返らなかった。動かないまま、なにかをじっと見つめているようだ。
一歩、二歩と近づいて初めて、フィロの見ているものが瓦礫の山であることにアサレラは気がついた。元は白かったであろう焦げた破片が積み重なる上に、色とりどりの光るものが散らばっている。
これは、昨晩の小聖堂の残骸だ。
やはり崩壊したのだ、一晩過ごさなくてよかった、という安堵と、フィロはどんな思いで自身の魔力がもたらしたものを眺めているのだろう、という懸念が、アサレラの胸の内で混交する。

「こんなところにいたのか……ロモロさんが心配してたぞ」

とにかく無事でよかった、と肩を叩こうとした矢先にフィロが振り返った。
驚いて一歩退こうとし、しかし伸びてきたフィロの手が聖剣の柄を握ったためにできなかった。
フィロの碧い瞳が間近に迫り、アサレラは息を呑んだ。

「聖剣……聖剣レーゲングス」

確かにこれは聖剣レーゲングスだが、その事実とフィロの行動とが結びつかない。

「おまえは、おまえのまま、この剣を持っているのか」

意図を図りかねて黙り込む――というよりはなにも言えないアサレラへ、フィロは重ねて問いかける。

「…………我を失うことや、記憶がなかったことは……あるか」

アサレラははっとした。

「きみは覚えてないのか? ……昨日のことも?」

フィロが肯定を表すように沈黙するので、アサレラも口を閉ざして思惟を巡らせる。
聖剣を持つおれは、おれのままなのか――。
アサレラは復讐に身を窶すことはできない。
聖剣を鞘から引き抜くあの瞬間、そして聖剣を佩する今もなお、何度も胸の内で繰り返してきた。

「おれはおれだ」

だが思い返せば、アサレラを死の淵から救い上げたのは結局のところ、いつだって怒りの感情だった。
聖剣を継承したからといって、慈愛に目覚めたわけでもなければ、怨恨を忘れたわけでもない。

「聖剣を持ったからって、そうすぐに変わるわけじゃない……おれの根っこは変わってないはずだ」

アサレラはアサレラのままだ。
だからこそこうして、使命と感情のあいだで板挟みになるのだ。
聖剣を握ったままだったフィロの手が、すっと離れていく。

「オレは……ときどき、オレのことが……わからなくなる」

フィロの背後で日が昇り始めていた。夜が明け、始まりの光が広まっていっても、二人のあいだに落ちる影は消えなかった。

「意識が……魔力の奔流に呑まれて、気がつけば、すべてが壊れている。……オレではないなにかが、オレの肉体を取って代わる日が、来るかもしれない……」

赤魔術を使う者は、いつか力に魅入られ、魔に目覚める。昨夜、ロモロが息を詰まらせながらも吐き出したその言葉が、耳の奥でよみがえる。

「ロモロさんは……それを、知ってるのか?」

フィロは答えなかった。

「じゃあ、どうしておれに」
「いつか、完全に……オレがオレでなくなるときが来たら、そのときは……」

曙光の生み出す濃い陰影の中で、フィロの瞳が刺すように激しい光を宿してアサレラを見る。

「親父はオレを殺せないだろう。だから……おまえが」
「ま、待て、おれだって、人を斬ることをなんとも思わないわけじゃない!」
「だが……おまえは、斬れるだろう。斬りたくなくても、それが、使命なら」

フィロの声が静かな雨音のようにぽつぽつと落ちるたびに、アサレラの胸の底へ波紋が起こる。
意識が流れ、記憶が沈み、おのれを失った果てに魔人となる日が来る。フィロはそう覚悟しているのだ。アサレラが知るフィロはほんの断片にすぎない。生まれ故郷を追われ今に至るまで、どれほど破壊し、そうして苦悩を抱えてきたのか、アサレラは知らない。
けど、とアサレラは声をあげた。

「これまでも同じことがあって、そのたびに、きみはこうして自分を取り戻してきたんだろ。それは、なぜだ?」
「オレを呼ぶ声がした……オレの名を呼ぶ、親父の声が」
「自分を見失いそうになっても、一番大事なことを思い出せるなら……その想いを忘れないでいられるなら、きみは、きみのままだ。そ……それに、友を斬るのは聖者の役目のうちじゃないし……」

付け足した言葉はいくらか早口になってしまう。

「…………友?」
「きみがおれをどう思ってるかはともかく、おれはきみを友だちだと思ってる」

フィロはなにやら考え込み始めた。相手がどう思うかよりも自分がどう思うかのほうが大切だとロモロが言ったのだから、こればかりは譲れない。そう思いはしてもアサレラの胸は逸る。

「…………昨日は」
「え?」
「おまえの声も聞こえた……少しだけ」

フィロはくるりと背を向けた。
薄紫色の髪は光を受けて、陽炎のように波打つ。

「行くぞアサレラ。親父が心配してるだろうからな」

しばし呆然としていたアサレラは、おのれの名を呼ぶ声で我に返り、慌ててフィロの背を追った。