第15話 起伏

ウルティアの地は起伏に富み、固い凹凸がブーツ越しに足裏を押し上げる。
天頂の太陽に照りつけられる山肌は岩のようで、土と緑に覆われた故郷の山とはずいぶん異なる。
額の汗を拭い、アサレラは足を止め振り返った。

「ロモロさん、フィロ、だいじょうぶですか?」
「ああ、問題ない」

無言で頷くフィロの長い髪が、乾いた風になびく。

「アサレラ殿こそ、山道は厳しいのではないか? 東コーデリアの出身だろう」

せっかく結んでもらったのになぜほどいているのか、と疑問を口にしかけたところでロモロに問われ、アサレラはぎくりとする。

「おれは……その、西コーデリアにも、行ったことがあるので……」
「そういえば、セイレムでフィロと会ったと言っていたな」

アサレラは、得心したように頷くロモロからそっと顔を背けた。
本来であれば街道を通ってパレルモへ行くはずだった。多少遠回りでも人通りの多い場所のほうが安全で、魔物も出にくい。ロモロの主張はもっともであり、アサレラもそのつもりでカタニアを出立したのだ。

それでも今、アサレラたちは山道を進んでいる。

「イスベルが話を通しておいてくれればよかったのに」

背後でロモロが苦笑する気配がした。

「まあ、仕方がない。彼女も失念していたのだろう」

独り言のつもりが、しっかり聞こえていたらしい。

「そんなに悪いことばかりではない。こちらのほうが早くパレルモへ着けるしな」
「……そうですね」

おのれの後ろに誰かがいると思うと、どうにも落ち着かない。アサレラは無意識に握りしめていた剣の柄から手を離し、細いため息をついた。

◇◇◇

赤茶色の山を周囲に巡らせるモレイリャ街道は強固で、王宮の城壁が伸びるようだ。
兵士から示された金額を幾度か反芻し、目深にかぶったフードの下でアサレラは眉を寄せた。

「こ、こんなにするのか? ……もしかして三人分か?」
「いいや、きっかり一人分だぜ」

砦の見張り窓から顔を出す壮年の兵士は、なにを寝ぼけたことを、と言いたげにアサレラを見下ろした。

「そ……そんなに払えるわけがない。高すぎる!」

アサレラは身を乗り出して訴えるものの、兵士はどこ吹く風と耳を掻いた。

「あのなあ、周りをよく見てみろよ兄ちゃん」

呆れたようなその言葉にアサレラが周囲を見渡すと、こちらを窺って通り過ぎていく通行人に混じり、武装した兵士たちが巡回しているようだった。

「人が増えりゃ、俺たちは気合い入れて守んなきゃなんねえ。それには金がいる。文句があんなら通んなくてもいいんだぜ」
「うっ……」

まったくの正論に、アサレラは返す言葉もない。

「まあ……そうだな。金がねえなら、金目のもんでもいいぜ」

アサレラの手持ちで売れそうな物といえば剣や鎧ぐらいだ。どちらも手放すわけにはいかない。
沈黙を続けるアサレラの脇からロモロが進み出て、取り出した皮袋の紐をほどいた。

「これでは足りませんか」

兵士は皮袋の中を覗き込み、肩をすくめた。

「合わせて二人分と半分、ってとこだな」
「二人分……」

呟くアサレラへ、兵士は親指で山を示した。

「ま、山道を行くしかねえな。北東に少し下ると入り口がある。安全の保証はしねえが、あんたら剣持ってるし魔物が出ても死にゃしねえさ」

確かに、街道を目印に登っていけば迷うこともないだろう。

「ロモロさん、おれはそっちのルートで行きます。王都で合流しましょう」
「いや、そういうわけにはいかないよ」

アサレラは、山の上を続く街道を眺めるフィロを横目で見た。

「けど、フィロは戦えないし、山はきついんじゃないですか?」

セイレムからカタニアまでの道中は疲れた様子を見せなかったフィロでも、さすがに山道は堪えるのではないか。
顎に手をやったロモロが、一つ頷く。

「……無駄かもしれないが……一応、言うだけ言ってみよう」

なにを言うつもりなのか、と思いつつアサレラは一歩下がり、場所を空けた。
歩み出たロモロが兵士に向き直る。
昇ったばかりの朝日がまぶしいのか、兵士は目を眇めた。

「わたしたちは、貴国の兵士イスベル殿にエステバン杯への出場を頼まれたのです」
「イスベルだと!?」
「そうだが……それがなにか」

突如声を荒げる兵士に、ロモロは眉をひそめた。

「俺はあの高尚ぶった女が嫌いなんだよ!」
「はあ?」

アサレラの口から、間の抜けた声がこぼれ落ちた。

「あの女! ちょーっと腕が立つからって俺を見下しやがる! だいたいあのしゃべり方も気に入らねえ! マドンネンブラウかぶれのあの女! 毎度毎度男を押しのけて斧を振り回しやがって!」
「………………さ、左様か」

大声で捲し立てる兵士に面食らっているらしいロモロの横顔を見ていたアサレラは、周囲の景色を眺めていたフィロがこちらへ近寄ってくるのに気がついた。
フィロはロモロの後ろで立ち止まり、その白いマントをぐいぐいと引く。

「親父」
「……そ、そうだな。山道を行こう。アサレラ殿も、かまわないか?」

異論を唱えられる立場にないアサレラは、もちろん首を縦に振った。
こうして街道を後にした一行の背後で、兵士はなおもイスベルへの呪詛を吐き続けていた。

◇◇◇

「フィロ、疲れてないか? アサレラ殿、少し休憩しよう」

今朝の出来事を思い返していたアサレラは、背後からかけられたその声で我に返った。
振り返ると、フィロとロモロは今まさに腰を下ろそうとしているところだった。

「二人とも、干しオレンジ食べるか? 堅焼きビスケットもあるぞ」
「……あ。は、はい。……いただきます」

親子に倣い、アサレラもその場にあぐらをかく。
ロモロはアサレラとフィロに輪切りのオレンジを二つずつ差し出した。
アサレラは、乾燥してもなお清々しい香気を放つオレンジを眺め、一つ口に含んだ。実は柔らかく皮は固く、甘さの中にほろ苦さがある。
手の中にあるオレンジを、アサレラはじっと見つめた。

「どうしたアサレラ殿。口に合わなかったか?」

頭上へロモロの声が降ってきて、アサレラは顔をあげた。
懐からビスケットを取り出しかけているロモロが気遣わしげな表情を浮かべているのに気がつき、アサレラは慌てて手を振った。

「い、いえ、うまいんですけど…………そうじゃなくて……その」

手のひらの中に残されていたオレンジを飲み込み、アサレラは口を開いた。

「……すみません。おれが金を持ってれば街道のルートで行けたのに……おれのせいで、二人までこんな道を」
「……おれのせい、おれのせいと、鬱陶しい奴だ」
「な、なに?」

アサレラは弾かれたようにフィロへ視線を移す。
フィロはアサレラのほうを見ることもなく、ロモロの懐からビスケットを一枚取った。

「……辛気くさいのがうつる。オレたちといるあいだだけでもどうにかしろ」
「フィロ、そんなことを言うものじゃない」

ロモロが咎めるようにフィロの腕へ触れる。
フィロはつまらなそうにビスケットを咀嚼し始めた。

「い、いえ……本当のことですし……」
「いや、わたしが思うに……」

不穏な気配を感じ、アサレラはとっさに剣に手を掛け振り返った。
巨大な目玉の魔物が八匹、浮遊しながらこちらを見下ろしていた。
目玉の背面で触手が蠢く。あれは確か魔術を行使する魔物だったはずだ。魔術を使われる前に片付けなくてはやっかいなことになるだろう。
剣を抜き立ち上がったアサレラへ、魔物たちが急降下して接近する。

そのとき、アサレラの視界を、白い光が覆った。

これはなんだ、とアサレラは狼狽する。あの目玉の魔物は視界を奪う魔術を使うのだろうか。
いや違う、そうではないとアサレラが事態を呑み込んだときにはもう、八つの目玉は地に伏せっていた。
ロモロの持つ細身の剣の先から滴る紫色の体液が山肌を汚す。
白いマントをひらめかせ、目玉に突き刺した細剣を引き抜くロモロの姿を、アサレラは剣を収めるのも忘れて凝視した。
ロモロの剣術が優れていることはイスベルとの一件で知っていたが、この一瞬で八匹の魔物を屠るほどだとは思いもしなかった。
細剣を払ったロモロが、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。アサレラは緩慢な動きで剣を鞘へ戻した。

「イービルアイの赤魔術は強力だからな。先手を打たなければ」
「……イービルアイっていうんですね」

ふと視線を巡らせると、フィロは座ったまま水筒の水を飲んでいた。
きみは暢気でいいな、と口走りかけたところで、細剣を鞘へ収めたロモロが穏やかに笑う。

「それで、さっきの話だが」
「は、はい?」

どの話だろう。
ロモロの強さの衝撃があまりに強く、その前になにを話していたかとっさに思い出せずにいると、フィロがすっくと立ち上がった。

「……おまえが辛気くさくて根暗で卑屈で鬱陶しいって話だ」
「あ、ああ……」

さっきはそこまで言っていただろうか。

「フィロ」

咎めるような声にも素知らぬ顔で、フィロは裾の汚れを払っている。
ロモロはそれを無言で見つめていた――かと思うと、その視線をアサレラへと向けた。

ごう、と、突風が吹き下りる。

「わたしが思うに、キミはまじめで、根を詰めすぎなのだと思う。もっと肩の力を抜いたらどうだろう」

耳のそばでマントが翻るのを聞きながら、アサレラは瞬くのも忘れてロモロを見た。
いったいロモロは、なにを言っているのだろうか。
懐疑と反発の去来するアサレラの胸裏が混沌とするのにもかまわず、ロモロはフィロへ穏やかに笑いかけた。

「おまえも本当はそう思ってるんだろう、フィロ」

フィロはふい、と顔を背け、すたすたと歩き出してしまう。

「フィロ!」

振り返らないフィロの歩みに合わせて薄紫色がゆるやかに揺れる。
呼び止める声を突っぱねられたロモロが嘆息する。

「すまないアサレラ殿。フィロにはあとでよく言って聞かせる」
「いえ、おれは別に……気にしてないので」

事実を言っただけで叱責されるフィロが気の毒である。
むしろ、ロモロのアサレラ評のほうが、買いかぶりすぎに思えて仕方がない。

「…………フィロは、どうしておれのことを、あんなに知ってるんだろう」

ぽつりと言葉をこぼすアサレラへ、ロモロは日の射すような笑みを浮かべた。

「――フィロはキミを気に入っているようだからな」

やわらかに放たれた言葉が、アサレラを正面から打ち据えた。
絶句するアサレラをよそに、ロモロは「フィロ、一人で先に行くな!」とフィロを追いかけた。
その場に残されたアサレラは、足下がぐらついて、まともに立つことすらできないような気さえした。

深く息を吸って、吐いて、アサレラはようやくおのれの頭からフードが外れていることに気がついた。
面と向かって鬱陶しい、辛気くさいなどと言われたことに傷ついたのではなく、ロモロの言葉による衝撃があまりにも大きかったためだ。
フードをしっかりとかぶり直し、アサレラはよろよろと歩き出した。

「…………どこが気に入られてるっていうんだ…………」