第2話 聖者

アサレラはコーデリアの地を歩いていた。

アサレラの購入した黒いマントにはフードがついているので、ひと気のある場所ではそれをかぶることにした。重装で身を守りながら戦うのは、やはりアサレラには合いそうもない。
王都オールバニーを北上するとラング大橋がある。国境であるダルウェント川を越えた先は、聖王の子孫が治めるマドンネンブラウ聖王国だ。聖王都ドナウのイヴシオン大聖堂に、聖剣レーゲングスは奉られているという。
コーデリア王トラヴィスはアサレラに、イヴシオン大聖堂まで赴き、聖剣を引き抜くことができるかを確かめるのだ、と命じた。
常であれば、身元の証明できない一介の剣士がマドンネンブラウとの国境を越えることなどできないはずだが、トラヴィス王の文書があれば問題ないだろう。
ドナウへ向かって足を進めるアサレラの脳裏で、昨日の情景が突風のように吹き荒れ始めた。

 

昨朝、アサレラが目を覚ましたのはコーデリア城の客室だった。
どうやら魔物によって崩壊したセイレムで倒れているところを、駆けつけたコーデリア兵に助けられ、コーデリア城まで運び出されたようだ。
清潔でやわらかなベッドや高級そうな調度品に緊張しっぱなしのアサレラのもとへ侍女がやってきて、トラヴィス陛下がお呼びですので謁見の間へおいでくださいませとこうべを垂れた。次いで、すでにセイレム滅亡から十日が経っているのだとも言った。
へんぴな田舎で倒れていただけのおのれに対し、なぜそんなにうやうやしいのだろう?
疑問に思いながらもアサレラは、侍女の言葉通り王の待つ謁見の間へと向かった。
セイレムのことや魔物のことを訊きたいのだろうというアサレラの予測は外れ、信じがたい出来事が待ち受けていた。生まれて初めて目にする玉座や、ずらりと並んだ騎士や家臣よりも、王に言い渡された言葉こそがアサレラの度肝を抜いた。

――絶望に閉ざされたこの世界に再び光をもたらすことができるのは、聖剣レーゲングスの担い手だけなのだ。そしてそれはアサレラ、あなたに他ならない。

豪華な玉座に腰かけたトラヴィスは、虚偽や揶揄など一片も含まぬ真摯なまなざしでアサレラを見下ろしていた。
薄汚れたブーツで絨毯を踏みしめるアサレラは、王の発するあまりにも突拍子のない話に思考がついていかず、ただ唖然とトラヴィスを見た。

――あなたはセイレム唯一の生存者。恐ろしき魔物の奇襲に遭いながら生き延びたのは、聖王と聖剣のご加護に違いあるまい。

アサレラがコーデリア兵に救出され一命をとりとめたのは、単なる偶然だ。

――聖王は輝く銀色の髪をしていたのだという。あなたの髪も銀色だ。

偶然だ、とアサレラは唇を噛む。そもそもこの髪の色も目の色も、もっといえば顔立ちも、なにもかも母からの遺伝である。

――その左手に刻まれた聖痕こそが、あなたが聖者であるなによりの証。女神イーリスが聖剣を聖王に授けたとき、聖王の左手の甲が輝きを放ち、聖なる紋様が浮かび上がった。それこそがまさしく神の瑞光であり、暗雲を裂き恐怖にあえぐ人々へ注ぐ希望の光なのだ。

それも偶然だ。確かに以前はこんな痣はなかったが、炎に焼かれたせいで聖痕とやらと似たようなものができてしまったのだろう。

――ま、待ってくだ……あ、いや、お待ちください。おれに聖剣を抜けるはずがないでしょう。そもそもマドンネンブラウの王族にできなくて、おれなんかにできるはずが……。

マドンネンブラウ聖王国を治めるフェールメール家のオトマー王とエルマー王子が聖剣レーグングスを引き抜くことができなかったと発表されたのは七年前の夏。大陸北部のローゼンハイム公国が魔王復活にともない滅亡した、その翌朝のことだ。

――そうだ。そして以降七年間、我らは聖剣の継承者を探していた。そしてようやく、あなたを見つけた……。

おのれをまっすぐ見下ろす厳然たる視線に、アサレラは口をつぐんだ。

――聖者アサレラよ、どうかコーデリアを、いや大陸を救ってほしい。魔王や魔物によって無念の死を遂げた人々のために、そして、犠牲となったあなたの故郷のために。

謁見の間へ、トラヴィスの声が厳かに響き渡った。

 

さまざまな感情の荒れ狂うアサレラの胸中と対照に、なだらかな裾の広がる周囲の山も、東へ伸びる平原も、いたって平穏だ。
秋の到来を感じさせる風が吹き、涼しさが汗ばんだ身体へしみる。
こうして秋風を受けていると、魔がはびこる世であることが嘘のようだ。
起伏のない土地に恵まれたコーデリア東部では農業が盛んである。もっと東へ足を伸ばせば広大に広がる田畑や、そこで作業をする農夫の姿を見ることができるだろう。とはいえアサレラが目指すべきはひとまずマドンネンブラウである。
――と、アサレラは足を止めた。

「………………あれ?」

立ち止まって見渡すと、周囲は山ばかりである。遠い東の方向へ、やわらかに色づき始めた大地が平らかに広がっている。
六歳のときに離れ、雪辱のため半月前に戻った、コーデリア西部――セイレム村。
北へ向かっていたはずのアサレラの足は、ひとりでに西へ進んでいたのだった。

アサレラは空を仰ぐ。
王都を発ったのは朝だったが、太陽はすでに天頂を過ぎ、金色の光を帯びている。
今から東部へ急いでも、今日中に王都へ戻ることはできないだろう。
そういえばセイレムの北東にも橋があったはずだと、アサレラは思い返す。名もなき吊り橋はウルティアとつながっていたはずだ。
ここまで来てしまった以上、オールバニーへ戻るよりもウルティア経由でマドンネンブラウへ行くほうが良いだろう。

しかし、そのためにはセイレムを通らなければならない。
確かめてやろう。アサレラは剣の柄をぐっと握った。
本当に故郷は滅びたのか。父と養母、それから会ったこともない異母兄弟は本当に死んだのか。アサレラがセイレム唯一の生存者だとトラヴィスは語った。
それが真実であるかどうか、おのれの目で確かめてやろう。
アサレラは決然と、かつての故郷へ向かって歩き出した。