第30話 預言者の末裔

窓から差し込む午後の日射しを受け、神官の持つ青色の布が光沢を放つ。

「わたしはミカヤ。神官です」

腕を伸ばせば触れられるほどの距離に差し掛かったそのとき、かつん、とひときわ高く踵を鳴らし、神官ミカヤは足を止めた。
ロモロやイスベルよりいくつか年下だろうか。長く伸びた前髪が落とす影の中で、金色の目だけがやけに光っている。

憤りに似た感情が突き上がってくる。
ミカヤが悪いわけではない。十七年前、記憶を失った銀髪の女性を連れ、王妃にと進言した。ただそれだけのことだ。
それでも、もたらされた事実と可能性は、アサレラの心には重かった。おのれが聖剣レーゲングスの継承者であるかもしれないと知らされたときと同じくらい――もしくはそれ以上に。

「ミカヤ……さん。おれになにか、用ですか?」

平静にとつとめた言葉は、声にしてみれば思いのほかとげとげしく響いた。だがミカヤは気にした素振りを見せず、手元の布をアサレラへ差し出した。

「聖者殿にこちらをお渡しするためにお待ちしていました。どうぞお持ちください」

一瞬の躊躇いののち、半歩進み出てそれを受け取る。

「かつて聖王アサレラが身につけていたものの模倣品です。本来、聖なる青色は聖王家の者にしか許されていませんが、聖剣を担うあなたにふさわしいと陛下が判断されました」

手元の鮮やかな青色は、今まで触れたどの衣服よりも手触りがよい。人目につきそうな色合いだが、購入する手間と金が省けたのは助かる話だ。アサレラは礼を言ってマントを羽織った。

「エルマー殿下が御自ら縫われたのです」

首元の留め具を填めているところに思いがけない言葉をかけられ、アサレラは勢いよく顔を上げた。

「お、王子が? これを? どうしてそんなことを……」

「殿下があまりに不器用でいらっしゃるので、見かねた侍女たちが手伝いを申し出たようですね。よくご覧いただければ、縫い目がまったく違うことがわかるでしょう」

マントの裾を持ち上げ、じっと目を凝らす。濃紺色の刺繍は、よく見ればところどころが不規則に波打っている。

「いやそうじゃなくて、王子がわざわざ縫ったのはどうしてですか」

「確かに殿下は絶望的に不器用でいらっしゃいますが、そのお心は汲んで差し上げてほしいと、僭越ながらそう思います」

なぜエルマーが手ずからこれを裁縫したのか、という点については答えてもらえないようだ。仕方がないのでアサレラはふと浮かび上がった別の疑問を口にした。

「ミカヤさんは、アスタナレフの子孫なんですよね。アスタナレフっていうのは……?」

「マドンネンブラウの前身であるイーリス王国を築いた聖女アナスタシアの弟です」

今度はきちんとした返答があった。

「女神イーリスの啓示を受けた姉を、アスタナレフは預言で助けたのです」

「じゃあ、ミカヤさんは聖王家の血を引いているってことですか?」

「それは魔王が降臨するよりも遠い昔の話。わたしはいち神官として聖王家、そして神にお仕えしています」

短い沈黙ののち、ではわたしはこれで、とミカヤは踵を返した。その動きに合わせて長い髪が流れる。

「待ってください!」

喉から飛び出した声の大きさに驚き、追いついた思考が冷える。
今しがたオトマー王に聞いたことの真偽を確かめたいという思いと、知ってどうなるのだという諦念がアサレラの内でせめぎ合っている。
立ち止まったミカヤは静かにアサレラを見ている。次に続くアサレラの言葉を待っているのだ。
アサレラは意を決し、一歩進み出た。

「八七〇年の春……記憶のないアシュレイという人を王のところに連れてきたのは、ミカヤさんだと聞きました」

「ええ。事実です」

「その人……王妃の素性を、ミカヤさんは知ってるんですか?」

「知ってしまえば、知らずにいた頃には戻れない。知らなければよかったと、あなたは後悔するでしょう」

「後悔するかしないか、決めるのはおれだ」

ミカヤがじっとアサレラを見る。見上げてくるその瞳は内部まで分け入るようで、アサレラの神経が張り詰める。

「わたしが知ることはそれほど多くありません」

「それでも……いいです。おれは本当のことが知りたい。ミカヤさん、知ってることを教えてくれませんか」

少しの沈黙ののち、ミカヤは背を向け、そのまま歩き始めた。
響く靴音の後を追うように、アサレラはその背に続く。

階段を下り、回廊を抜け、炊事場を過ぎ、中庭へ出た。
ミカヤは歩みを止めない。どこまで行くつもりだろうか、と思いつつ、アサレラは黙ってミカヤに続く。
整然と並ぶ洗濯物がそよいでいる。こうしていると、寄せては返す白い波間を歩いているようだ。

やがて波は途切れ、アーチを抜け、さまざまな草花の群れる場所へ辿り着いた。
ミカヤが四阿に腰掛けたので、アサレラも向かいに腰を下ろした。
風が出てきた。すっと通り抜けるような植物の青い匂いがする。

「陛下は王妃が過去を思い出すのを――いいえ、ご自分のもとから王妃が去って行くのを恐れておられました」

夕方の翳りを帯び始めた空を、金色に輝く雲が流れていく。西へ傾きつつある太陽の光を背に、ミカヤが静かに語り出した。

「十七年前、コーデリアとの国境で、銀の髪の女性が倒れているのを見つけました。高熱にうなされる彼女に、わたしはこの薬草園で採取した薬草を煎じました。彼女は一命をとりとめましたが、熱の後遺症か、一切の記憶を失っていたのです」

アサレラは固唾を呑み、こわごわと唇を開いた。

「王妃は……記憶を失う前の王妃には、家族がいたんですか?」

もたらされる真実がたとえどんなものであっても、後悔などしない。そう決めたはずのアサレラの胸が逸る。

「アシュレイ」

アサレラの肩が跳ね上がる。

「生と死の狭間をさまようあいだ、彼女はその名をうわごとのように呼び続けていました。それが彼女の本当の名であったのか、それとも……別の誰かの名前だったのか。今となっては分からぬことです」

入り乱れる感情がアサレラの胸を波立たせる。頭のどこか冷静な部分が、これはわかっていたことだ、とささやく。そうだ、本当はわかっていた。見ないふりができれば楽だったのに、それを選ばなかったのはアサレラ自身だ。
震える指先はいつのまにか聖剣の柄を握っていた。剣から手を放し、続けてください、とミカヤを促す。

「ローゼンハイムの魔術士ならば記憶を取り戻すすべを知っているかもしれないと、わたしは陛下に進言しました。それからです。王妃が後宮から出ることもまれになったのは」

ふ、と横を向いたミカヤの背後で、侍従たちが洗濯物を取り込むのが見えた。

「愛とは恐ろしいものですね。愛する者を守りたいがために、他の者を憎まずにはいられない。神が人を愛するようには、人は人を愛せない」

愛と憎しみ。相反する言葉を耳にしたアサレラの脳裏に、三人の面影が明滅する。
ロビン、アデリス、コートニー。今はもういない、アサレラの家族。

「そう、ですね。おれの周りにも……そういう人たちが、いました」

今にしてみれば、とアサレラは俯いた。ロビンはアデリスを愛していたし、コートニーはロビンを愛していた。だからこそ、愛する者を失ったロビンは絶望し、愛する者を捨てたアデリスをコートニーは激しく憎んだ。それぞれの愛憎は激しくうねり、アサレラはその渦中へ引きずり込まれた。

まったく迷惑な奴らだ、とアサレラは息を吐き出した。どういうわけか、セイレム村にいた頃のことを思い返しても、胸の内側に焼け付くような怒りを覚えなくなっていた。だからといって、彼らの所業を許したというわけでは断じてないが。

「聖者殿、あなたはご自分が聖剣レーゲングスを扱えることを、どのようにお考えですか」

どうと言われても。
返答に窮したことを悟ったのか、ミカヤはわずかに首を傾げた。

「質問を変えましょう。聖王家の血筋ではないご自分が聖剣レーゲングスの継承者であることを不思議に思いませんでしたか」

「それは……まあ」

聖剣の継承者は聖王家に連なる者だ。アサレラだけでなく、誰もがそう考えていただろう。

「歴代の聖王家の中で、聖剣を扱えたのは聖王アサレラだけなのです。イーリス王国がマドンネンブラウ聖王国へ名を改めて五百年、王位継承者は戴冠式で、聖剣レーゲングスを鞘から引き抜き天へ掲げました。ですが、あれは模造品。本物の聖剣ではない」

それを知るのは王宮でも一部の人間だけですが、と付け加え、ミカヤは流れるように語り続ける。

「聖剣は魔を滅ぼすために神から賜ったもの。魔王の現れないうちは必要ない。ゆえに王家の者が聖剣を抜けなくても不思議ではなかった。来るべき時が来れば、聖剣の光は闇を払う。わたしたちはそう考えていました」

「けど、魔王が復活しても、王や王子は聖剣を使えなかった……」

ミカヤは頷いた。

「聖剣は血によって継承するものではなかった。聖術士の子が必ずしも聖術士でないように、魔術士の親が必ずしも魔術士でないように、聖王家の者たちもまた、聖剣の継承者ではなかったのです」

魔術士、という言葉に、アサレラの肩が反応する。

「銀髪の持ち主が聖者であると広めたのは、わたしです」

えっ、と声をあげ、アサレラは思わず身を乗り出した。

「女神イーリスが天地を造り、聖女アナスタシアに啓示を与えるまでが書かれた創世記。女神の教えが記された聖典。いずれかに聖剣の継承者が銀色の髪の持ち主であると記述があれば、あなたはもっと早くに見出されていた。違いますか?」

「それはそうかもしれないけど……、じゃあ、どうして」

「王妃に出会ったとき、視たのです。銀色の髪の人物が聖剣レーゲングスを掲げているのを」

「視た?」

「わたしは預言者の末裔ですから、ときどき、夢を見るように未来の断片を知るのです」

吹き抜ける風がだんだん冷えてきた。

「彼女も聖剣を引き抜けなかった。だから王妃にと勧めたのです。きっと彼女の子が聖剣の継承者なのだと」

ですが、とミカヤは視線を落とした。

「二人のあいだに生まれたエルマー王子は青髪でした。聖王家の血脈であることを表す、エルフリーデ王女より継がれた聖なる青」

「エルフリーデ……?」

どこかで聞いた名前だ。だが、どこでだっただろう。

ふと足下を見れば、影が長く伸びている。日が沈む前にフィロたちとの待ち合わせ場所に向かわなくては、とアサレラは立ち上がった。

「おれ、そろそろ行きます。ミカヤさん、教えてくれてありがとうございました」

「聖者殿」

差し込む西日が影を作り、ミカヤの表情は窺えない。
何度か言い淀む気配を見せた後、ミカヤは固く頭を下げた。

「道中、お気を付けて」