第29話 聖王家

「アサレラ殿! 右!」

ロモロの声が飛ぶ。
とっさに構えた剣は鋭い突きを受け止めた。指先がじんと痺れる。ロモロの細剣が繰り出す突きは熾烈で速い。攻勢に転じるきっかけを見出そうと、アサレラは剣戟を踏みこたえた。

――今だ!

アサレラは剣を振り下ろした。ロモロは手首を返し、アサレラの攻撃を流す。よろめいたアサレラの胸元へ、白刃が静かに突きつけられる。

「力任せに戦っていては強くなれない。それに、焦ると大雑把になるところがある。相手の動きをよく見ることだ」

心臓が激しく波打ち、とめどなく汗が流れる。だというのに、相対するロモロは息一つ乱れていない。
聖王都へ向かう道中の合間を縫ってロモロに稽古をつけてもらうようになってから数日が経った。穏やかな物言いと裏腹にロモロの手ほどきは厳しく、アサレラはいまだ一太刀浴びせることもできず一方的に叩きのめされていた。

「まだ……やれます、もう一度……あ」

荒い呼吸で途切れる言葉をどうにか繋いだとき、アサレラの鼻先へ冷たいものがぽつんと落ちた。
滴は一つ二つと増え、たちまちに雨が降り始める。視線を上げれば、どこからか現れた暗雲が青空を覆うように低く垂れ込めていた。

「向こうに洞穴があった」

木陰で休んでいたフィロが近づいてきて、アサレラの背後を指さした。

「では、今日はここまでだな」

仕方ない、というふうにロモロが剣を収める。アサレラは空を睨みあげ、今日の稽古の礼を言った。

 

 

「アシュレイ……!」

呼びかけられた言葉にアサレラの思考が止まった。

晩秋の雨は長く続いた。雨が降っては木陰や洞穴に駆け込み、止み間に足を進め、隙間を縫って剣術の稽古を受ける。そうしてアサレラたちが聖王都ドナウへ辿り着いたのは、冬の気配が間近に迫る晴れた日だった。

城門の脇に立つ衛兵は、王と王子は聖剣を持つアサレラの到着を心待ちにしていて、特に王子は窓の外を眺めてはため息をつき、あるときは待ちかねて迎えに行こうとして厩舎に駆け込み周囲に止められるほどだったと苦笑交じりに語った。

ところが、謁見の間に現れたアサレラを見るなり、マドンネンブラウ王オトマーはひどく狼狽する素振りを見せた。控えている騎士や家臣たちも一斉に顔を見合わせ、ざわめきが伝搬する。

「あ、ああ……アシュレイ、おまえなのか……」

オトマーはもう一度その名をつぶやき、玉座からふらりと立ち上がった。

なぜオトマーはアサレラの本当の名前――という認識はアサレラにはないが――を知っているのだろうか。ミーシャからエルマーへ、そしてエルマーからオトマーへ伝わったのだろうか?

だが、なんだか様子がおかしい。疑問を差し挟む前にとにかく訂正しておこうと、アサレラは口を開いた。

「オトマー王、おれは、アサ……!?」

おのれの名を言いかけた声が止まる。ふらつく足取りで近づいてきたオトマーが、アサレラの目の前で頽れたのだ。

「へ、陛下!? どうなさいました!」

「まさか……早く殿下を呼べ!」

周囲の騒ぎ立てる声が渦を巻く。その渦中に立つアサレラはかえって冷静な思いで、なにも言わないままオトマーを見た。

うなだれるために垂れる青色の髪、その隙間から見える金色の目、どちらもエルマーと同じ色だ。オトマーもまた、妻の面影をアサレラに見出したのだろう。

だが、なぜこんなにもオトマーは取り乱しているのだろうか。

――ロモロさんは、マドンネンブラウの王妃は何年も前に死んだって言ってたけど……。

オトマーは誰の声も耳に入らない様子で、うつむいたまま何事かを呟いている。その言葉を聞き取ろうとアサレラが膝をついたとき、オトマーが震える手を伸ばし、アサレラの手を握った。

驚いて退こうとしたのを察知されたのか、もう片方の手が添えられる。力の込められるてのひらにはじっとりと汗をかいているのに、指先はひどく冷たい。

「すまなかったアシュレイ、おまえの記憶が戻らなかったのは、わたしが……いや、わたしのせいなのだ……」

「え……」

「お父さま!」

どういうことだ、と疑問が口をついて出かかったとき、エルマーが割って入ってきて、オトマーの両肩を掴んだ。その勢いで手が解放され、アサレラは反射的に膝を上げた。

「しっかりなさいませ! この方は聖者アサレラどのです、お母さまではありません!」

何度か肩を揺すられ、オトマーは我を取り戻したようだ。ゆっくりと立ち上がり、なにかを振り払うように頭を振るった。

「お父さま、お母さまの記憶が戻らなかったのがお父さまのせいというのは、どういうことですか!?」

張り詰める空気を揺るがすようにエルマーが奮然と父親へ詰め寄る。深く考え込むように額へ手をやるオトマーの表情は窺えない。アサレラは――いや、その場の誰もが固唾をのんでオトマーの返答を待った。

「人払いを」

やがて視線を上げたオトマーは、顔色こそ蒼白だったが、命じる声にはすっかり王の威厳が満ちていた。

不意に強い視線を感じ、アサレラは何気なく瞳をそちらへ動かした。紫色の髪をまっすぐ伸ばした神官の女が、人影の隙間から探るような眼差しをアサレラへ注いでいる。

アサレラに気づかれたことを悟ったのか、彼女は視線を外し、引き払う家臣たちにまぎれて扉の向こうへ消えた。

残されたのはオトマーとエルマー、そしてアサレラだけとなった。

「エルマー、おまえも出ろ」

「お父さま! どういうことなのですか! 説明してください!」

なおも言い募ろうとするエルマーを手で制し、オトマーは静かに言った。

「…………ひとまず聖者殿と話す。その後、おまえにも真実を語ろう……必ず」

父の様子にエルマーは納得しかねるようだったが、それでも固く頭を下げた。

「………………わかりました。では聖者どの、また後ほど」

エルマーが去ると、広々とした謁見の間に重い沈黙が降りる。

なぜ王子であるエルマーまで遠ざけたのか。なぜアサレラを見てあんなにも狼狽したのか。そして、なぜアシュレイの名を口にしたのか。訊きたいことは多々あった。だが、どう切り出すべきだろうか。

「同行者がいらっしゃると息子から聞いていたが、その方々はどうされたのだ?」

先に沈黙を破ったのはオトマーだった。

「城下をいろいろ見て回ってくるそうです。なので、城へはおれ一人で」

ロモロは過去の因縁から王族を忌避している。

――たぶん、フィロと一緒に故郷を追われたことと関係してるんだよな……。

ロモロははっきりとは言わなかったが、アサレラはそう推測している。だから気遣って城へは連れて来なかったのだ、とはさすがに言えず、アサレラは曖昧に語尾を濁した。

「オトマー王、どうして王子を……」

「聖者殿のご両親のことを詳しくお聞きしてもよいか」

両親。その言葉にアサレラの胸が一度、激しく跳ねた。

「聖者殿は生まれ故郷を魔物によって滅ぼされ、ただお一人で生き残ったのだと聞いた。おつらいことを思い出させて酷だとは存じているが、どうしても確かめねばならぬことがあるのだ」

「いいえ、おれは……つらくなんてありません」

逸る鼓動を抑えるように胸へ拳を当てる。波立つ思いがこれ以上広がる前にと、アサレラはオトマーを見返した。

「おれは六歳ごろ故郷を出て、あの日……セイレムが燃えた日まで一度も帰らなかった。だから正直、父親のことも継母のことも、ろくに覚えてない。生んだ母親のこともほとんど覚えてない。おれの母親は」

アサレラは一度言葉を切った。

「おれが二歳にならないうちにおれと親父を捨てて、今も見つかってない。どこに消えたのかは知りません」

つとめて冷静に事実を並べたつもりだったが、それでも長年抱え続けた憎悪が端々に滲む。

「それは……母君の失踪は何年のことだったか、覚えておられるか?」

「おれが八六八年の生まれなんで……えーっと」

「……八七〇年の…………それは……春……か?」

「春か夏か、どっちかだと思いますが……」

「…………母君の名は?」

問うオトマーの声には悲壮な覚悟のようなものが籠もっていた。

「アデリス……あの、オトマー王、確かめたいことって……おれの母親と関係あるんですか?」

オトマーは目を瞠り、それから大きく息をついた。

「――わが妻の名はアシュレイという」

「……アシュレイ…………」

「わたしが妻と出会ったのは八七〇年の春。ミカヤに連れられたアシュレイは、自分の名以外の記憶を失っていた」

「…………!」

「わたしはアシュレイを妻として迎えた。預言者アスタナレフの末裔であるミカヤの言うことならば間違いなどあるはずないと思ったのだ。そのうちわたしは、妻にはもともと夫と子がいたのではないかと思い始めた。わたしは……妻の記憶が戻ることが恐ろしかったのだ」

安堵するように語るオトマーとは裏腹に、アサレラの内に小さな点のような違和感が生じた。

「聖者殿は亡き妻によく似ておられる。顔立ち、銀の髪、目の色……まるで生き写しのようだ」

違和感が疑念となって膨れ上がる。

「……正直に申せば、聖者殿の母君がアシュレイなのではないかと訝しんでいたのだが……アシュレ……は自身の名だけは覚え……いた……」

オトマーの声がだんだん遠ざかっていく――。

 

 

気がつけばアサレラは扉を背に立っていた。

どのように話が終わり、どうやって謁見の間を後にしたのかすら覚えていない。

焼き付いた過去の記憶へ、今しがた聴いた王の声が差し込まれる。

十七年前に消え、今も行方の知れないアデリス。

アシュレイという名前以外のすべてを忘れ、最後まで記憶が戻らなかった王妃。

八七〇年の春。

アサレラと同じ顔、同じ色、同じ名前を持つ王妃。

――王妃アシュレイは、アデリスなのか……?

夫と子を捨てたアデリスが記憶を失ったふりをし、王に見出されたのだろうか。仮にそうであるならば、なぜ、よりによってアシュレイと名乗ったのか。それに、何年ものあいだ欺けるものだろうか?

思考は疑惑と否定をせわしなく往来し、アサレラは立ちすくんだ。

だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。歩き出そうと視線を転じた先、アサレラは回廊の柱の陰に紫色を見た。

先ほどアサレラを見つめていた神官が、肩にかかる長い髪を背中へ払い、靴音を静かに響かせてこちらへ歩いてくる。

「聖者殿。お待ちしていました」