第21話 罪と約束

「…………抜けた……」

アサレラが白い光を湛える剣身を呆然と眺めていると、紺色のローブの裾を揺らして神官が駆け寄ってくる。

「なにを呆けているのです! 早くその方を治療しなくては!」

背負った杖を手に取る神官がミーシャの傍らへ膝をつく。横顔にかかるベールから金色の目が覗くのを見て、アサレラは気がついた。
この神官はオールバニーで会った子どもだ。アサレラを母親と間違え、女神に祈りを捧げたあの神官が、イヴシオン大聖堂から聖剣を持ち出し、魔人の追撃を振り切ってこの闘技場まで来たのか。確かトラヴィス王に逢うと言っていなかったか、とアサレラは思いかけ、今はそれに言及している場合ではないと頭を振った。

横たわるミーシャの顔は青く、息絶えそうに浅い呼吸を震わせている。
神官の持つ杖の先端の水晶が、蒼くほのかな光を放ち始める。

「青魔術か。こんなに間近で見たのは初めてだ」

傍に立つロモロが感心したように言うのに、神官はロモロをちらりと見て、すぐにミーシャへ視線を落とした。

「…………ええ。ところで、まもなく聖王国から騎士や神官たちが来るはずです。あなたがたには彼らと協力して怪我人や瓦礫を運び出すのを手伝っていただきたいのですが……よろしいですか」
「承知した。行こうフィロ」

剣を手に佇んだままのアサレラは、その背を見送った。

――ロモロさんはともかく、フィロは役に立つのかな……いやそれより、おれも二人について行ったほうがいいのか?

この場に残るよりもロモロやフィロとともに救助の手助けをしたほうが良いのではないか。単純な力仕事であれば足手まといになることはないだろう。アサレラはそう伝えようと神官を見た。杖が放つ光が強くなっていくのとは対照に、金色の目が次第に翳りを帯びていく。

「…………聖者どの」

一瞬、アサレラはそれがおのれへの呼びかけだと気がつかなかった。

「あなたはこの方のお知り合いですか」
「あ、ああ……」

アサレラは曖昧に頷いた。

「では、なにか……生きる気力を与えるようなことを言ってあげてください。この方は…………生きることそのものを諦めておられるようなのです」

後頭部をがつんと殴られたような衝撃で、足下がぐらついた。

「…………ミーシャは……死にたいのか?」

アサレラは、どうにか語尾を震わせずにその言葉を発した。

「いいえ。死にたいのと生きたくないのとは、また別です」
「どっちにしたって……! 死ぬことには変わりないだろ!」

ほてった身体を冷たい汗が流れ、頭に血がのぼる。

「ええ、そうですね……」

神官が目を伏せる。
ミーシャの体温は失われ、やがて物言わぬ肉塊となって土へ還るのだろう。アサレラの脳裏で、あの日のセイレムの惨状がちらついた。

「聖者どの、治癒術は傷を治すのではありません。治したいと思う気持ちを助けるのです」

神官がかざした杖は変わらず光を放ち、立ちすくむアサレラを、横たわるミーシャを、そして神官自身を蒼く照らす。

「この方が生きることを諦めているのなら、生きることを望むような言葉をかけて差し上げてください」
「そんなこと言われても……」

口を開けばお互いを傷つけ合うようなことしか言えないというのに、ミーシャになにを語るというのか。

「あなたはこの方に生きてほしいのでしょう、ならばそのことを伝えればよいのです。今ならまだ間に合います……さあ早く!」

アサレラは思わず視線を下げた。ブーツのつま先が黒く汚れている。

「…………ミーシャ」

アサレラはしゃがみ込み、ミーシャを見つめた。緑の髪は砂礫にまみれ、血の気の失われた顔には黒い液体がこびりついている。

「きみが死にたいなら、おれにそれを止める権利はない……けど、でも、おれは……、きみに言い忘れたことがあるから……ひとまずは生きてもらわないと、おれは、その……すごく、困るんだ」

やはりうまく口にすることができず、言葉はあちこちをさまよったのち、あらぬ方向へ着地する。ロモロのように暖かく包みこむような言葉も、フィロのように冷たくも的確な言葉も、アサレラには言えやしないのだ。

「――傷が」

隣で小さくささやくのが聞こえ、アサレラは神官へ振り返った。

「傷が塞がっていきます。よかった……」

杖から放たれる光が輪を描いて収束していく。
立ち上がった神官は裾についた砂を払い、にっこりと笑った。

「では、ぼくは他の方の治療をしてきます。聖者どのはその方を安全なところへ運んで差し上げてください」
「えっ? あ、おい!」

神官はアサレラの返事を待たず、建物に穿たれた穴へ向かって駆けて行った。

アサレラは嘆息し、左手へ視線を落とした。差し込む日差しを反射した抜き身の剣身がきらりと光っている。
これからは自分のためだけに戦うことは許されない。聖剣レーゲングスを抜いた以上、世界の命運を担い、希望の象徴として聖剣を振るわなければならない。星の数ほどいる民衆はアサレラへ救いを求めるだろう。剣を抜くことを決めたのが自分自身である以上、逃れることはできないのだ。

アサレラは剣を鞘へ収め、ミーシャの身体を持ち上げた。

 

どうしたものかと迷ったのは一瞬で、アサレラは闘技場の裏手の宿へ急いだ。受付の男に事情を説明すると「確かにさっきすげえ音がしたなぁ」と頭を掻き、すぐに部屋を用意してくれた。

ミーシャの身体を寝台へ横たえる。いくらか血の気の戻った顔に血や黒い液体がこびりついたままなことに気がついたアサレラは、せめて拭くだけでもしたほうが良いのか、とミーシャを見つめた。あの日涙を湛えた瞳は瞼で覆われ、戦う決意を語った口は閉ざされている。今はただ、規則正しい呼吸に合わせてシーツがゆっくり上下しているだけだ。

やはりミーシャが目覚める前に立ち去ろう。アサレラは踵を返し、音を立てぬように扉へ手をかけた。

「………………アシュレイ」

その声に、アサレラはぎくりと足を止めた。

「…………ミーシャ……」

気まずい思いで振り向くと、半身を起こしたミーシャがアサレラををまっすぐに見ている。

「……あなたが、わたしを助けてくれたのね」

アサレラは目を逸らした。

「…………きみを治したのは聖王国の神官だ」
「でも、わたしをここに運んでくれたのはアシュレイでしょ」

おれは別にきみを助けたかったわけじゃない、と意地を張りそうになるのを、アサレラは喉の奥へ押しとどめた。

「本当はわかってたの……アシュレイの言うとおり、わたしに戦いなんてできないって」

アサレラは視線を上げた。ミーシャは祈るように組んだ手を額へ当てうつむいている。

「でもどうしても戦う力がほしくて、どうしようか悩んでたら、シルフ……あの魔人の声がしたの。…………おまえに力を貸すから、おまえの身体を貸せって……」

ミーシャは泣きそうに語尾を震わせた。アサレラは一瞬ためらったのち、数歩分ミーシャのほうへ近寄った。

「わたしの中で闇がどんどん大きくなっていって、怖くなったけど、でも、もう戻れなかった」
「カタニアでおれに会ったときには、もう……?」

あのとき、すでにミーシャの内側ではシルフの闇がひそかに息づいていたのだろうか。そうではなく、アサレラと会話を経て戦う力を切望したのだとしたら、一連の騒動はアサレラの責任でもある。

「………………わたしはシルフの提案を受け入れた。自分の欲望のために、多くの人を危険な目に遭わせたわ」

ミーシャはアサレラの問いには答えず、うつむいたまま肩を震わせた。

「アシュレイ、どうしてわたしを助けたの。わたしは…………あれだけの人を苦しめて、何人も死なせたのに……」

泣くのか、とアサレラは思った。だが、挑むようにこちらを見上げたミーシャの瞳に涙はなかった。

「すごい光だった……アシュレイ、あなたは本当に聖剣を継ぐ聖者さまだったのね」

「………………ああ」

なにか、嫌な予感が胸元へせり上がってくる気がする。これ以上ミーシャをしゃべらせてはいけない、と、アサレラが思うよりも早く、ミーシャの暗く沈んだ目に激情の光が宿った。

「なんで……なんでわたしを助けたの、あなたはその剣で魔王を倒すんでしょ、だったらわたしも倒してみせなさいよ!」
「死ねば罪が消えるわけじゃない!」

その瞬間、かっと湧き上がった感情のままアサレラは言葉を叩きつけていた。

「あなたは……罪を償うために死を選ぶのは自己満足だと言いたいの」
「きみが死ねば彼らの苦しみが消えるのか? 願いを叶えるために魔人を受け入れた事実が消えるのか? 死んだ人間が生き返るのか!」
「確かにそうだけど……でも!」
「ロビンとコートニーは死んだ。でも奴らのしたことがそれですべて帳消しになったなんて、おれは認めない!」

あの夜、炎に包まれるセイレムの隅で、ロビンとコートニーは確かに死んだのだろう。それでも彼らの所業によって生み出された憤怒は胸の底で燻り、ほんの些細なきっかけでアサレラを燃え上がらせる。

ミーシャは潤んだ瞳を揺らしている。アサレラは目を伏せ、大きく息を吐いた。

「………………すまないミーシャ。きみが生きていたくないのを知りながら助けたのだって、おれの自己満足だ」

幼いアサレラがイーリス教徒の生き方に反発したのは、おのれの意志に反した道義や戒律を強いられるのに我慢ならなかったからだ。恨みを忘れて生きるぐらいなら、志半ばで野垂れ死ぬほうがマシだと思っていた。

「けど、きみには借りがある。この前ロモロさん……白いマントの剣士に解毒の薬草を渡しただろ?」
「え? ええ……」
「一言、その礼がしたかったんだ……ありがとう」

人の生き方を強制できないように、死に方だって強制できない。そう知りつつアサレラは独善でミーシャを生かした。おのれの浅はかな行動に胃が重くなる。これ以上ミーシャの顔を見ていられず、アサレラはくるりと背を向けた。

「じゃあな」
「待って! ……ねえ、約束して。…………魔王を倒したら、わたしに会いに来るって」

吐息のようなミーシャの声がアサレラの耳をかすめる。思いがけない言葉にアサレラは反射的に振り向いた。

「…………ミーシャ、きみは……、おれのことを嫌いじゃなかったのか?」
「べ、別に……嫌いじゃないわ。ただ意見が合わないだけ……それにあなただって、わたしを好きじゃないのにわたしが死ぬのは嫌なんでしょ、それと同じよ!」
「そうか」

ミーシャは胸元から両手を離し、その手をじっと見つめ、ぎゅっと握りしめた。

「ごめんなさい……わたし、自分のしたことが怖くなってあなたに八つ当たりしたわ。助けてに来てくれてありがとう。今も……この前も」

アサレラを見上げるミーシャの目は水のように澄み、暗く差す陰も激しい光も見当たらなかった。

「わたしは死なない。だから……あなたも死なないで。…………建て直したエクシアイ教会を見てほしいの」
「その前に、おれがさっさと魔王を倒してしまうかもしれないぞ」
「そのときは……手伝ってもらうわ。…………アサレラ、にも」

張り詰めていた気が緩む思いで、アサレラはふっと笑った。

「ミーシャ、魔物の討伐とかで金を稼ぐのはやめたほうがいいぞ。報酬はそこそこになるけど、きみには向かないだろうし」
「わ、わかってるわよ!」
「だったらいい」
「…………ねえアサレラ」

ミーシャは先ほどと一転してうかがうような声を出した。

「あの人たちと行動してるの? わたしが薬草を渡した剣士と、背が高い男の人……」

ロモロとフィロのことだろう。

「ああ、聖王都まで一緒に行くつもりだ」
「…………三人で?」

頷くと、ミーシャは困惑したように眉を寄せた。

「あの……ね、アサレラ。あの人たちを疑うわけじゃないし、あなたを助けてくれたのはわかってるけど……気をつけてよ」

そう言われてアサレラは、二人を警戒しなくなっていることに気がついた。

「…………ん? あ、ああ……けど、ロモロさんはいい人だし、フィロもまあ、悪い奴じゃないさ。なにかするならおれが毒で倒れてるあいだにやるはずだろ?」

アサレラには今さら二人を疑う理由もなくても、ミーシャはそうではない。心配させないよう言ったはずの言葉に、ミーシャはますます表情を曇らせた。

「…………そう、ね。悪い人たちには見えないわ。でも、あなたけっこう常識ないし、気は張り詰めてるけど肝心なところで抜けてるし……自分で思ってるほど人を疑えてるわけじゃないからね? あなた、ほんとに自分のことをわかってないんだもの」

なぜ別れを前に貶されているのだろうかと、アサレラは怒りよりも戸惑いを覚えた。そして、この違和感はいったいなんだろう。なにかが少しずつずれているような気がする。

「わたしもこの国に来てからわかったの。…………男を警戒しすぎるってことは、ないんだって」

この瞬間、アサレラはミーシャがとんでもない思い違いをしていることを確信した。
アサレラが唖然としているのにも気がつかない様子で、ミーシャはさらに言いつのる。

「聖剣が使えるからって安心しきったらだめよ。剣を持てない状況なんていくらでも作り出せるんだから……」

このまま黙っていては誤解は解けない。アサレラはどうにか声を絞り出した。

「………………………………ミーシャ……おれを……、女だと、思ってる……のか?」
「ち……違うのっ!?」

驚くのはアサレラのほうである。

「わたしてっきり……だって、エクシアイでは同じ部屋だったじゃない!」
「それは部屋が余ってなかったからじゃないのか……? だいたい、おれもきみもあのときは六つか七つのガキだっただろ」
「そうだけど……! で、でも……わたしはずっと……」

取り乱すミーシャは、それ以上の言葉が出ないようだった。
それほど驚くことだろうか。むしろアサレラは、出会ってから今までずっとそういうふうに思われていたという事実に気が動転している。
アサレラは頭を掻き、気まずい思いでミーシャから離れた。

「ま、まあ、そういうことだから心配ないさ。じゃあな」

アサレラは扉を開き、そのまま廊下へ出た。
窓から差し込む光に目を眇め、アサレラは廊下を歩き出した。

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