第13話 失敗

女性の目は、まっすぐロモロを見つめている――ということは、ロモロの知り合いなのだろうか。
アサレラは、ひそかに拳を握りしめた。
彼女の素性がどうであれ、すぐ背後に立たれて気がつかないなど、剣士の恥さらしである。
思い返せば、当初からおかしかったのだ。
勧められるまま飲酒をし、あまつさえ他人に背中をさらして平然とするなど、今までのアサレラには到底考えられないことだった。

少しでも気を抜けば、足をすくわれる。常に気を張っていなければ、生きていくことなど到底できはしない。
かつてロビンが食事に毒草を盛ったように。コートニーが真冬の川へ突き落としたように。タスポートの孤児が金品をくすねようとしたように。戦士たちが報酬を横取りしたように。夜盗が寝込みを襲ってきたように。

――だからこそ、気を引き締めないと……。おれは、アデリスを、この手で殺さなくてはならないのに……!

周囲に気を許すことは、まさしく処刑を待つ罪人と同義だ。髪を剃って首を差し出しているのと同じだ。
人の善意などまやかしであり、女神イーリスは紙の上の思想に過ぎない。
緩みきった警戒の糸を、再び張り詰めさせなければならないと、アサレラは女性を見据えた。

「剣士様、あなたに頼みがあってまいりました」

低めの声は、艶気を含んでやわらかい。褐色の肌に映える膝丈の白いドレスが、ランプの灯を反射して赤く染まっている。

「…………あの話でしたら、お断りしたはずですが」

思いがけず固い声が響き、アサレラは背後をそっと窺った。
困ったように眉を寄せるロモロの隣で、フィロの目は熾火のような底光りをたたえている。

「わたしには身に余りますので、他を当たっていただきたい」

女性は身を乗り出し、なお言い募る。

「いいえ、そう簡単には諦められません」

頭上で繰り広げられる会話の内容はさっぱり読めないが、剣士様、という言葉には聞き覚えがあった。
検問所に在駐していたウルティア兵は、ロモロを剣士様と呼んでいたはずだ。素敵な、という装飾もつけて。

「あなたは……もしかして、検問所のウルティア兵ですか?」

ロモロしか目に入っていなかった様子の女性は、そこではじめてアサレラとフィロに気がついたようで、真鍮色の目を瞠った。

「あら、あなたたち……、剣士様のお知り合いだったの?」

女性はアサレラとフィロを順繰りに見渡し、薄青い髪を払った。

「あなたたちには名乗ってなかったわね。あたしはイスベル・マドリゲラ。あなたの言うとおり、ウルティアの兵士よ」

イスベルは断りなくアサレラの隣に腰かけ、身を乗り出してロモロを見つめた。

「剣士様、どうかお願いいたします」

白い手袋に包まれたイスベルの手が、ロモロの手を取る。
あ、とアサレラが声をあげるよりも早く、フィロがイスベルの手を払った。

「――触るな」

突き刺すようなフィロの声が狭い空間へ反響し、周囲が、しん、と静まり返った。
そろりと、フィロの様子を窺う。青緑色の瞳へ宿った炎が、すべてを焼き殺そうとしているかのごとくあふれ出そうとしている。
なにか言わなくては――そう思うのに、アサレラの口は無意味に開くばかりで声を発してくれない。

「――フィロ、やめなさい」

ロモロの手がフィロの肩へ触れる。
フィロのまとう怒りが霧散していくのが、はっきりと見て取れた。
それに呼応するように、周囲は徐々に喧噪を取り戻していく。

「だってこいつが……」

フィロの声は拗ねた子どものようだった。さきほどの、底冷えするような凄みは感じられず、アサレラはひそかに安堵した。

「ごめんなさい。淑女としてあるまじき行為でしたわ」

払われた手を胸元へ引き寄せ、イスベルは苦笑した。

「それはそうと剣士様、どうしてもお願いすることはできませんか?」
「わたしは……、目立つようなことはできません。どうかご理解いただきたい」
「ですが、わが国の伝統がかかっているのです」

目線をさまよわせたアサレラは、ふと、フィロがこちらをじっと見ていることに気がついた。
彼は、おまえがなんとかしろ、と、目で訴えかけてきているのだ。

――どうしておれが……。……おれがなにか言うより、きみが怒ってみせたほうがよっぽど効果的じゃないか?

そう思いつつ、アサレラは、ちらりと視線を動かす。

――ロモロさん……、困ってるん……だよな。

思えばロモロは、とても親切だった。
昏倒したアサレラなど放置して、息子とともにコーデリアの自宅へ帰ればよいものを、わざわざ宿へ運び、解毒までしてくれたのだ。金品を盗んだり、アサレラを殺そうとするのならば、気絶しているあいだにいくらでもできたはずだ。
ロモロの意図はともかく、一方的に施されるのは、アサレラの性に合わない。

アサレラはロモロになにもしていない。フィロを連れてカタニアまで来たのは、善行のうちに入らないだろう。善意から行ったのではないのだから。
たとえ相手の思惑がどうあれ、与えられた厚意には報いなければならない。

「……イスベル……さん。まさか、ロモロさんに弁償させる気ですか?」
「えっ?」
「吊り橋ですよ! 壊したのは確かにロモロさんかもしれないけど、魔物との戦いのせいなんですから、弁償させなくたっていいでしょう」

きょとんとしていたイスベルはやがて、明るい顔つきで両手を合わせた。

「そうよ、それだわ!」
「はっ……?」
「剣士様、橋を壊したのを少しでも悪いとお思いなら、武闘会へ出てくださってもいいのではなくて?」
「…………武闘会? ……あっ!」

イスベルは始めから、吊り橋の話などしていなかったのだと、アサレラが気づいたときにはすでに遅かった。
イスベルは明後日に王都パレルモのフラウィウス闘技場で開催される武闘会への出場を打診していたのだ。おそらく、彼らがともに魔物と戦ったときから。
ロモロはずっと辞退していたのだろう。にもかかわらず、アサレラの一言で、絶好の口実を与えてしまったのだ。

「ロモロさんは……出ませんよ。その……これから家に帰るんですから」
「でも、出場者が例年より少なくて困ってるのよ。だから見込みのある戦士に頼んでいるの」

アサレラは苦し紛れの一言を放った。

「……ロモロさんは、ウルティア人じゃなくてコーデリアの人ですよ。それなのに……」
「かまいませんわ。年に一度のエステバン杯が盛り上がるのなら、外国人でも魔物でもよろしくてよ」
「だったら……それだったら、おれが、…………」

かつてアサレラは、ウルティアの闘技場に身を置こうと考えたこともあった。流れの戦士として生きるならば、コーデリアよりウルティアのほうが適しているだろうと思えたからだ。
だが、今のアサレラが衆目の中で剣を振るうなど、できはしない。
真実が露呈する前に銀髪の剣士が現れれば、下手な期待を持たせてしまうだろう。
いずれ裏切られる希望を担うのはご免だ。そう思うとどうしても口が重くなり、続くべき言葉を言いよどんでしまう。

「…………わかりました。出場しましょう」

アサレラがそうしているうちに、ロモロがきっぱりと言い切った。

「ロ、ロモロさん……」
「親父!」

およそはじめて聞くような激しい声色に言及する余裕は、アサレラにはなかった。

「わたしが武闘会へ出場すればすむのでしょう」
「ええ、ええ、助かりますわ!」

微笑を浮かべ、イスベルは立ち上がった。

「剣士様、明後日に王立闘技場フラウィウスでお待ちしています。どうかお忘れなきよう」

イスベルは優雅に一礼をし、かつんと靴音を響かせて去って行った。

その姿が階上へ消えてようやく、アサレラはこわごわと口を開いた。

「…………ロ、ロモロさん……すみません、おれ、余計なことを……」
「……いや、キミのせいではないよ」

冷たいまなざしが頬へ鋭く突き刺さるのを感じながら、アサレラはそちらを見ることもできず、ただうなだれたのだった。