夜明けのティザーヌ


 なぜ俺たちは、出会ってしまったんだろう。
 彼女に出会わなければ今ごろ、ハーブティーでも飲みながら本を読んで、心穏やかな時間を過ごせたはずなのに。


 背後で騒ぐ声がする。
 掲示板から目を離し振り返ると、帽子をかぶった男子と眼鏡の男子が自販機の前で口論をしていた。

「またトワイライトとモーメントだよ」

 行き交う女子たちがげんなりした顔を見合わせている。帽子のほうは知らないが、眼鏡のほうは確かにトワイライトの会員だ。
 トワイライトとは紅茶愛好サークル「トワイライト紅茶」のことで、モーメントはコーヒー同好会「コーヒーモーメント」のことだ。
 トワイライトとモーメントはなにかにつけ争っているが、手や足が出るわけでもなし。当事者を除く学内の人間――教授陣を含む――は、たいして重視していない。

 俺にはこの諍いを止める義務があるのかもしれない――トワイライトの会計として。
 だが、と腕時計を確認する。急がないとバイトに遅れてしまう。
 今だってコーヒーと紅茶のどちらを飲むほうが優れているとかなんとか、くだらない言い争いをしているだけだろう。
 少し後ろ髪を引かれつつも、俺は足早に駅へ向かった。


◆◆◆


 その日のバイトは精神的消耗の連続だった。
 やる気のないくせに騒ぎ声だけは大きい生徒、成績が上がらないという保護者のクレーム、給料も出ないのに強要される早出、塾長と正社員講師たちの派閥争い。

「風見くん、君は一人で行動するのが好きみたいだけど、結果にコミットするにはもっと仲間同士でアライアンスを組まなきゃ。風見くんはシフトのギリギリに来てすぐ退勤するけど、タスクがタイトになりそうなときはバッファを持たせないとダメだよ。しょせんバイト、そういう低い意識は周囲に伝染するからね」

 バイトのくせに意識の高い同僚バイトリーダーに当てこすられ、俺の疲労は限界だった。バッファとはんだ、バッファローのことか。そして奴の担当は現国と古文なのに、なぜかたくなに英語を使いたがるのか。
 極めつけは塾長が自分のミスを俺に押しつけたのだ。
 それを指摘すると塾長は逆ギレした。
 非を認めて一言でも謝罪をくれれば俺だって鬼じゃない、失態を責めることはしないのに。人間なのだから間違いもするし、ごまかしたくなってしまうこともあることはわかっている。だがこの仕打ちだ。

 とにかく、俺は休息を欲していた。
 大学からほど近いそのカフェで見かけたのぼりにつられて、ふらりと入ってしまうほどに。


◆◆◆


 勢いで注文を終えて店員が去ってしまうと、にわかに不安感がどっと押し寄せてくる。

――ほんとに、だいじょうぶかな……。

 窓の外をちらりと見る。
 あたりは藍色の闇に包まれている。夏も終わりに近づき、日の落ちるのが早くなった。
 夏休みなので、行き交う人々の中に、学生らしき姿はほとんど見られない。
 胸をなで下ろした矢先、風に揺れるのぼりのそばを小柄な女性が歩いて行く。

「あ」

 俺はさっと目をそらし、急いでテーブルへ視線を落とした。
 よく見知った顔が外を歩いていたからだ。

 気づかれただろうか。すぐに目をそらしたから、気づかれていないだろうか。
 心臓がいやに逸る。休息のためにこのカフェへ入ったというのに、むしろ余計に疲れている気がする。
 注文したものを飲んだら、さっさと帰ってしまおう。
 そう思っていると、ちりんとドアベルが鳴った。
 軽快な足音がまっすぐこちらへ向かっている。

「和己!」

「さ……、……沙香……」

 現れたのは、青いワンピースを着た、ゆるやかな栗毛の女性。
 俺の恋人である、早乙女沙香、その人だった。
 沙香は当然のように俺の向かい側へ座り、メニュー表を眺めている。

「和己がこういうとこにいるの、めずらしいよなぁ」

 ぎりぎりと痛む胸を拳で押さえながら、「ちょっとね」と言葉を濁す。
 俺の様子に気づいた素振りもなく、沙香はメニューをめくっている。

「腹減ってるから、がっつり系にしようかな」

 俺の心を苛むのは、良心――あるいは罪悪感だろうか。

 俺がトワイライトで会計をまかされていることを、沙香は知らない。
 沙香はモーメントの会員だ。
 トワイライト紅茶とコーヒーモーメントは反目し合っている。友人づきあいも暗黙の了解で制限されているというのに、交際するなどもってのほかだ。
 役職つきだが地味ゆえに顔の知られていない俺とは違い、彼女はいち会員にもかかわらず、その存在は広く知られている。早乙女沙香と聞いて、まったく聞き覚えのない人間は学内にそういない。たおやかそうな外見と名前に反して負けん気が強く、男よりも口汚いからだろう。
 しかし、俺が沙香とはじめて逢ったとき、彼女はモーメントに所属していなかったし、俺はトワイライトの勧誘を受けているところだった。

 何事も消極的で受け身と自他ともに認める俺が、一世一代の告白を果たしたのは、ひとえに沙香を愛したからだ。
 沙香がコーヒーモーメントに加入したと知ったのは、その三日後。俺はすでにトワイライト紅茶へ所属していた。
 卑怯な俺は自身のサークルのことを話せなかった。じゃあ別れよう、と言われることが、なによりも恐ろしかったからだ。
 なので沙香とのデートは基本的に遠出をするか、どちらかの自宅で過ごすことにしている。
 だが、その努力がこんな形で水泡に帰するというのか。

「…………ん?」

 そうだ、注文を取りやめればいいだけじゃないか。
 なぜこんな簡単なことに気がつかなかったのか。焦りのあまり、頭の回転が鈍ったのだろうか。
 とにかく怪しまれないように注文をキャンセルしよう。俺はテーブルの脇に置かれた呼び出しボタンを押そうとした。
「お待たせしましたぁ」
 語尾の間延びした店員が、銀色のトレーにカップとピッチャーを乗せてテーブルへやって来た。
 青い液体で満たされたピッチャーの中で、赤紫色の花がくるくる踊っている。
 店員はグラスへ青い紅茶を注ぎながら沙香を見た。

「お客さま、ご注文はお決まりですか?」

「炭焼きコーヒーと……残りは後で頼みます」

「かしこまりましたぁ」

 店員が足取り軽く去って行くと、沙香はしげしげとグラスを見つめた。

「青いジュース? すごい綺麗な色だな」

 沙香がグラスへ手を伸ばす。
 てのひらがじっとりと汗ばんでいることに今さら気がつき、両てのひらをズボンにこすりつけた。

「あたしもそれにしよっかなあ。なんて名前?」

 青の好きな沙香がそのグラスを手にするさまは、俺なんかよりよっぽど似合っている。
 だが――。

「……マロウブルーティー」

「え?」

 沙香がグラスを置き、怪訝そうに俺を見る。
 言ってしまったからには、もう後には戻れない。

「紅茶だよ。……ハーブティー」

 遅かれ早かれ露呈したことだ、と、膝の上で震える手を握った。
 もし卒業まで隠し通せたとして、俺は、何事もなかったかのような顔で沙香の傍にいることはできるのだろうか。
 沙香は気が短く口が悪い。遅延で講義に遅れそうなら髪の乱れを気にせず猛ダッシュするし、スカートでも平気であぐらをかく。美人なのに女って感じがしない、とは男子の評だ。
 けれど、自分を偽ったり飾り立てることを良しとしない、率直で伸びやかな女性だ。
 沙香とともにいられるのならば、俺もそうありたい。

「俺、トワイライトの会計なんだ」

 沙香が細い眉をひそめる。
「隠してて、ごめん……」
 心臓がどんどん膨れ上がって、肋骨がバラバラになりそうだ。
 俺たちのあいだに降りた沈黙が、永遠のように感じられた。
 店員がやって来てコーヒーを置く。俺たちの異変を感じ取ったのか、そそくさと立ち去った。
 沙香が口を開いた。

「…………ほんとか?」

「……………………」

 俺の無言を肯定と悟った沙香の目に、怒りが満ちる。

「なんで黙ってたんだよ!」

「………………ごめん」

 沙香の顔をまともに見ることができず、目を伏せる。

「コーヒーは別に嫌いじゃない……どっちかっていうと紅茶が好きだけど。モーメントに入ったのは会長の勧誘が強引で……」

 ぼそぼそと言い募るが、言い訳としかとられないかもしれない。

「………………嫌われたくなかったんだ…………」

 バン! と激しい音を立て、沙香がテーブルに両手をついて立ち上がった。

「あたしは!」

 沙香が顔をゆがめる。
 俺は口をつぐんだ。

「あたしは……和己が言ってくれれば……」

 沙香の目は潤んでいたが、決して泣いてはいなかった。
 ここで泣くような女性なら、俺は好きになってはいない。
 でも、もう終わりなのか。
 沙香はコーヒーカップへ手を伸ばしかけ、わずかな逡巡ののち、冷水の入ったコップを手に取った。

「この、ルイボス野郎!」

 沙香が手を振るう。撒き散らされた水がきらめくのが、いやにゆっくり見える。
 気がつけば俺の顔はびっしょりと濡れ、水が滴っていた。
 ひとまず、これだけは言っておいたほうがいいだろう。いつか沙香が恥をかかないように。

「こ、これは……ルイボスティーじゃない、マロウブルー……」

 俺が言い終える前に沙香は憤然と去り、青いワンピースの裾が視界の端で翻った。
 乱暴な足音ののち、扉につけられたベルの音が鳴り響いた。

 しんと静まりかえった店内で、場違いに穏やかなクラシック――曲名は知らない――が流れていく。
 ソーサーに添えられていた輪切りのレモンを手に取る。青い水面に、濡れそぼった男の情けない顔が映っている。

 レモンをそっとカップへ入れると、美しい青色がみるみるうちにピンク色へ変わっていった。