011:名は語る

「…………え」

 一拍遅れて言葉の意味をとらえ、アサレラは伸ばしかけた手を止めた。
 ロモロの口調は質問ではなく確認だった。
 それらしき振る舞いをした覚えは、アサレラにはない。だというのに、アサレラの正体をどこで確信したのだろうか。
 アサレラの疑念を察したのか、ロモロがふっと微笑した。

「コーデリアのトラヴィス王のお触れはウルティアまで届いている。コーデリアから銀の髪の聖者発つ、とな」

 トラヴィス王、なんてことをしてくれたんですか。
 オールバニーでも、トラヴィスのせいで同じような目に遭ったことを思い返し、アサレラは卓へ両肘をついて頭を抱えた。
 これでは、目立って仕方がないではないか。
 ただでさえ銀の髪ということで人目につきやすいというのに、聖剣レーゲングスの継承者――正しくは候補である――という付加がなされてしまえば、なおのことだ。

「だが、その髪色ではもともと人の目を引いたろう?」

 アサレラが顔を上げると、ロモロが苦笑を浮かべていた。フィロはといえば、相変わらず無表情である。

「そう……ですね、珍しがられたことは何度か。聖剣だのなんだのにこじつけられたことは……さすがに、あまりなかったですね」

 アサレラが口の中でぼそぼそ言うと、ロモロが頷いた。

「確かにな。マドンネンブラウを治めるフェールメール家の直系は青髪だ、銀髪と聖者を結びつける者はそういないだろう」

 青い髪。思いがけないその言葉に、アサレラは眉を寄せた。

「え、けど……聖王アサレラは銀髪なんですよね? 聖典がどうのって、トラヴィス王が言ってましたが……」

「それは……、あまり知られていなかっただろうな。…………今までは」

 聖王アサレラの子孫たるフェールメール家が青色の髪だというのなら、なぜおのれは――いや母アデリスは銀色の髪なのだろうか。
 無論、すべての要素が正しく親から子へ受け継がれるわけではないだろう。アサレラは父ロビンにまったく似ていなかったし、フィロとロモロも目の色は同じだが、その他の部分は似ていないように見える。

 だが、なにかがどこかに引っかかる。この違和感は、いったいなんだろう。
 ざわつく胸を鎮めせようと、アサレラは今度こそ葡萄酒に口をつけた。香り高くコク深い風味が、アサレラの気分をいくばくか落ち着かせる。
 と、アサレラはフィロがまじまじとこちらを眺めているのに気がついた。

「な、なんだ?」

「…………おまえ……銀髪なのか。……赤じゃないのか?」

「フィロ、それは灯りのせいだ」

 アサレラの頭上の壁面にはランタンがかかっているので、揺らぐ火が反射して赤色やオレンジ色に見えているかもしれない。対面に腰かけるフィロやロモロも少しばかり赤みがかって見える。

「昼間の屋外では銀色に見えるはずだ。さっきまでそうだったろう?」

「…………どうだったかな……」

 父親の言葉に首をかしげているフィロは、本当に覚えていないようだ。
 忘れたのか、はなから見てすらいないのか。どちらにしろアサレラの髪の色などに興味がないのだろう。
 アサレラは腹をくくった。

「……名乗りが遅れましたが、おれの名前は……、アサレラ。聖剣を継げるかどうか確かめるために、マドンネンブラウへ向かうところです」

 ロモロが怪訝な顔をするかたわら、フィロはぴくりと眉をあげるだけにとどめた。

「……どういうことだ? …………キミは生まれながらの聖者ではないのか?」

「違います。おれはほんとにただの剣士で……アサレラっていうのも、本名じゃない」

 ミーシャはおのれをアシュレイと呼んだ。ミーシャが語った昔日の思い出とアサレラの記憶は大部分が一致しているので、人違いをしているということはないだろう。
 それでもアサレラには、おのれの名がアシュレイとは、どうにも思えなかった。

「おれは自分の名前を思い出せなかった。それでトラヴィス王が、おれをアサレラと呼んだんです」

 アサレラというのはあくまで聖王アサレラの名であり、アサレラ自身の名前ではない。おのれの名に関する記憶を失い、聖剣とこじつけられたからこそ、アサレラはアサレラと呼ばれるのだ。

「…………思い出せない? 記憶がないのか?」

「自分の名前だけ……他のことは覚えてるんですが」

 ロモロの目が憐憫の色を帯びたように見え、アサレラは慌てて付け加えた。

「あ、でも、本名がわからなくても別に困らないんで……むしろ、アサレラって呼ばれるほうが、しっくりきます」

 はじめてアサレラと呼ばれたとき、アサレラの胸を占めたのは、実のところ違和感などではなかった。
 ミーシャに呼ばれた本名とおぼしきアシュレイという名よりも、よほど収まりがよい。現に目の前の親子へ名乗った今も、さながら失われた破片がぴったりとはまったように揺るがない。
 そもそも父と母のどちらかが付けた可能性が高い本当の名前などに未練はない。捨てられるのならば喜んでかなぐり捨ててやろうと、アサレラは思う。
 しかし、アサレラには気がかりがある。
 つかの間ためらったが、アサレラは左手のグローブを外した。

「…………これを、見てもらえますか」

 アサレラは手を卓の上へ滑らせた。
 晒された甲を見たフィロとロモロが、同じ色の瞳を瞬かせる。

「…………茨と涙……だな」

「これは……イーリス教の紋様、そして聖王アサレラの聖痕と同じものだ」

 ロモロが目を眇め、アサレラを窺う。

「ではアサレラ殿、キミは、やはり……」

 フィロは無言のまま、アサレラの手の甲をじっと見つめ続けている。
 気がつけば、アサレラの口からは細いため息が漏れていた。

「やっぱり……、そうですか」

 トラヴィス王の推測は絶望に追い詰められた者のこじつけだと言い切ることも難しくなってしまった。
 左手に痣を持つ、滅びた村で唯一生き残った、銀髪の剣士。要素一つ一つを取り上げれば、アサレラと聖者の共通点は多い。

「ただ……、聖剣を継げるはずもないのに、おれがアサレラと名乗っていいものなのか……」

 決定打は放たれていない。どれだけ聖者然としていたところで、聖剣レーゲングスを扱えなければなんの意味もないのだ。
 聖剣の継承者たりえないままアサレラを自称するのは気が咎める。だが今さらあの名を名乗ることは受け入れがたい。
 たかだか名前にこれほど思い悩まされるとは思いもしなかった。これまでは必要としなかったものだというのに。

「いいのではないか? キミには他に名乗る名がないのだろう」

 まったくないと言えば嘘になる。偽りを告げたわけではないものの、後味の悪さがアサレラの胸中で尾を引く。
 膝の上で握りしめた拳に刻まれた茨と涙が、目に飛び込む。聖なる紋様は熱を持ったようじりじりと痛んだ。

「……あ、そうか、新しく作ればいいのか」

 突如、渦巻く思考の底へ光が差し込んだかのようだった。

「新しい名前か…………名前……、なにがいいと思います?」

 良い名前など思いつきそうもないアサレラは、第三者の意見を募ることにした。

「まあ……わざわざ考えなくとも、名前はとりあえずアサレラでいいのではないか? ……フィロ、おまえもそう思うだろう?」

「オレは……どうでも」

 冷然とした声に、おのれの存在を誇示するように紋様から放たれる熱が、すっと引いていくのを感じ、アサレラは顔をあげた。
 相変わらずの無表情で、こちらを見てもいないフィロに、アサレラはなぜか安堵を覚えた。

「…………フィロ」

 ロモロが咎めようとするのにかまわず、フィロはアサレラをちらりと見た。

「…………好きなように名乗ればいい」

「好きなようにって……、おれの、か?」

「……他に誰がいる」

 意外そうに目を瞬かせたロモロが、やがて穏和な笑みを浮かべた。

「確かに、フィロの言うとおりだな」

 ロモロの視線がアサレラへ移る。

「キミは聖王の名に違和感はないと言った。ならばそれでいいのではないか? それに、アサレラよりもぴったり来る名前
を、わたしやフィロが考えられるとも思えないしな」

「…………そうですね……確かに、そうかもしれません」

 不思議な感慨が胸の底で去来するのを、アサレラは感じ取った。

「それよりも――アサレラ殿。なぜキミがコーデリア王に見出されたのか、教えてもらえないか?」

「……そう、ですね。……じゃあ……」

 アサレラがこれまでのいきさつ――魔物に滅ぼされた村で一人生き残ったこと、コーデリア城でトラヴィスに白羽の矢を立てられたこと、セイレムでフィロと会ってここまで来たこと――を話し終えるころ、食事が運ばれてきた。
 大皿に盛られた色とりどりのサラダ、山と積み上げられたパン、魚の切り身の酢漬け、オレンジ色のソースがかかった山羊肉の煮込みに、赤ピーマンと豆の入ったシチュー。
 アサレラはどんどん並べられていく料理に虚を突かれ、それからはっとした。
 急いで懐をあさると、わずかばかりの銅貨と一枚ばかりの銀貨が、布袋の底へむなしく張りついているのが見えた。

――金がない。

 黒パン一つと薄いスープですませるのがアサレラの常だ。たかが一食でこれでは、ドナウへ到着する前に所持金が尽きそうだ。
 アサレラが視線をあげると、ロモロはサラダをそれぞれの小皿に取り分けていた。
 おのれが貧窮していることを告げるのは決まりが悪いが、いつまでも黙っているわけにはいかない。
 アサレラは布袋をしまい込み、意を決してロモロを見た。

「あ、あの……ロモロさん。おれ、持ち合わせが……」

「え?」

 一瞬目を丸くしたロモロが、すぐに苦笑を浮かべた。

「心配しなくても、わたしのおごりだ」

「……えっ? いや、でも…………」

「フィロが世話になったことだしな」

 ためらうアサレラをよそに、フィロはすでにシチューをかき込んでいる。
 立ちのぼる湯気が鼻先へ届くと、アサレラの腹がぐるぐると鳴った。
 この芳香に抗える生物など、はたしているのだろうか。
 再び左手にグローブを嵌め、アサレラはその手に匙を取った。

――とりあえず、食ってから考えよう……。