009:再会

 気がつけばアサレラは、午後の日差しあふれる賑やかな表通りに戻って来ていた。
 アサレラの目の前で、多くの人間が行き来している。その光景を見続けるアサレラの胸が、にわかに痛む。

――ミーシャの言う通りだ。確かに、おれは変われない……。

 おのれが間違ったことをしたと、アサレラは思わない。アサレラを形づくるのは激しい怒りと深い憎しみ、果てのない殺意、それがアサレラのすべてだ。この思いを偽り、否定してしまえば、アサレラに残るものはなにもなくなってしまうだろう。
 アサレラは、十数年ものあいだ、父母や養母を殺すことを夢見て生きてきたのだ。

 だが、薄暗い路地で陽光に反射して輝く涙をこぼしたミーシャの姿を思い返すと、本当におのれが正しかったのか、わからなくなる。

 自分をつくり出したすべてへ感謝すること。アサレラがイーリス教への嫌悪を決定づけた聖典の一節であるその中には、生命の根源たる女神イーリスは当然ながら、生み育てた存在である父母のことも含まれている。

――でも、感謝なんて、どうしたらよかったんだ……。

 セイレムにいたころ、誰もそんなことを教えてはくれなかった。アサレラがあの村で与えられたのは暴虐と蔑視、それから無関心だ。他者を慈しむ心や生きるために必要な知識などとは無縁だった。
 アサレラが神父の制止を振り切り教会の扉を開いたとき、晩春から初夏へ移り変わる青葉が瑞々しく、濃厚な緑の匂いにむせ返ったのを今でも覚えている。

 あのときアサレラは、確かに自由だった。
 だというのにアサレラの心は、どこかへ固く縛り付けられたようにままならない。

――おれは……なにがしたかったんだろう。

 ミーシャに手を伸ばしてなにをしたかったのか、アサレラはおのれの胸に問うが、答えは返ってこない。
 十三年前に袂を分かち、そして今、永遠の決別を果たしたミーシャ。
 茨がゆっくりと這うように、胸が痛み始める。痛みは全身へ浸食し、アサレラをじわじわと蝕む。

――おれは……、どうすればよかったんだろう。

 アサレラが十数年前のことを、それからつい先ほどのことを思い起こしていると、肩をどんと押された。思考が脇へ追いやられ、アサレラはたたらを踏んだ。
 辺りを見渡しても、誰がアサレラとぶつかったのかなど、わかりはしない。
 アサレラは細くため息をついた。

――そうだ、とにかく、フィロを見つけないと……。

 しかし気がつけばアサレラは、あらゆる方向から全身を押し潰されていた。

――な、なんなんだ、これは!

 身動きが取れないほどの人だかりで、呼吸がつかえるように息苦しい。脇道へ逃れようにも、思うように身動きがとれない。

――さっきより、もっとひどくなってないか……!?

 いくらカタニアの人口が多いといっても、この密集度は異様だ。人波の渦中に立たされたアサレラの気分は、ひどく悪かった。

「ぅ……っ」

 しきりに目の前がぐらぐらと揺れる。
 腹の辺りが焼けるように熱く、なにかが喉までせり上がってきているような気がする。
 こめかみが、脈打つようにひどく痛む。

――これなら、魔物と戦ってるほうがずっとマシだ……。

 一刻も早くこの場を抜け出したい思いでアサレラが人群の中でもがいていると、数多の頭の向こうに薄紫色が見えた。
 アサレラははっとして、そちらへ目を向ける。

「…………フィロ!」

 夏の花に似た、やわらかな薄紫色。
 見間違うはずがない。あんな美しい色の毛髪を持つ人間など、そうそういるはずもない。あれは、間違いなくフィロだ。

 この好機を逃すまいと、人だかりをかき分け押しやり、アサレラはふらつく足を急がせる。ひしめき合う人々の中を歩くのは相変わらず骨が折れたが、目的地が決まってしまえばどうにでもなる。

 ゆるやかな薄紫色の髪と、静謐な青緑の目を持つ、滅びた村でアサレラのマントを引いた青年。
 アサレラと一瞬の邂逅を果たし、慣れない戦いへ身を投じると断言した、緑の髪の彼女。

 なぜこうまでしてフィロを追うのか、なぜミーシャを追わなかったのか、なぜミーシャへ手を伸ばしかけたのか。アサレラは、自分でもわからない。
 ミーシャと同じように、フィロともすぐ別離を迎えるのだろう。一時的に道を交えたとしても、アサレラとともに同じ方向へ進む人間など、今まで一人もいなかったのだから。

 突如、きつい拘束から解放されたように、身体が軽くなった。
 ようやく人だかりを抜けたようだ。
 腰をかがめながらアサレラは深く息を吸い、それから吐き出し、おのれの周囲へ視線を巡らせた。
 どうやら人の群れが大きな輪を作っていたようで、アサレラはその中心地へたどり着いたようだ。

「……フィロ、…………き……なさい」

 呼吸を整えるアサレラのほど近い場所で、知らない男の声がフィロの名を呼んだ。
 そよ風が吹き、アサレラの銀髪とマントをそよがせる。

 ひらけた視界の中心で、フィロが誰かをきつく抱きしめていた。
 アサレラはおのれの目を疑った。

 一瞬、なにが起きているのかわからなかった。
 どよめく人々が垣根のように取り囲む中心で、フィロが誰かを――男をしかと抱きしめている。

「ど……どういうことだ……!?」

 顔は見えないが、ゆるやかに波打つ薄紫色の長い髪、身体の細長さ、裾の長い臙脂色の胴衣、どれを取ってもフィロそのものだ。
 ミーシャに絡んでいた男たちのように、相手があきらかにを嫌悪感を示していればフィロの知人として割って入るが、抱きしめられている男はこれといってそんな素振りを見せていない。
 アサレラは視線だけで周囲を見渡す。輪を作る人々は中心の男たちへ好奇、軽蔑、あるいは詮索するような視線を注いでいる。

――そりゃあ、そうだよなあ……。

 成人男性同士が白昼堂々往来で抱擁を交わしていれば、否が応でも注目を浴びるだろう。アサレラとしては、おのれが注視されているわけではないにもかかわらず、男二人のうち片方と知人というだけでいたたまれない思いである。
 そもそもなぜフィロはこんなことをしているんだ、と、アサレラは訝しみ、ふと思い至る。
 フィロは人を探していて、その相手はカタニアにいるのだ。

――じゃあ、あの人が、フィロの探していた人なのか?

 だからってこんなとこでこんなことをしなくてもいいだろ、アサレラはそう思いつつも、フィロに抱きしめられている男をそれとなく観察する。
 明るいオレンジ色の髪。アサレラの位置からは男の顔が見えないが、白いマントに覆われた背部を見ると三十代くらいのようだ。着衣の上からでもよく分かる鍛えられた身体と腰に下げた細身の剣が、腕の立つ戦士であることを如実に物語っている。
 それにしても、どこかで聞いたような特徴を備えている、気がする。

「親父……」

 アサレラが答えへたどり着く前に、フィロの声が雨粒のようにぽつりと落ちた。

「おやじ!?」

 静かな夜へ染み入る雨声のようなその声に、アサレラは駆け足でフィロへと詰め寄った。

「きみは父親を探していたのか!? い、いや、その人はきみの父親なのか!」

 フィロの肩をつかみ強引に顔を向けさせると、フィロは物憂げな瞳でアサレラを見やった。

「おまえ……、まだいたのか」

「なんだその言い草は! きみが勝手に消えるから大変だったんだ、こっちは!」

「……頼んだ覚えはない」

「そ、それは…………そうだけど……」

 アサレラの語尾がしぼむ。

「キミは息子の知り合いなのか?」

 フィロに抱きしめられたままの男も、いつのまにかアサレラへ視線を向けていた。
 顔立ちの整った、柔和な印象を受ける男だ。
 青みがかった緑色の目に、蒼い影が落ちている。
 弱く風が吹き、熟れた果実の香気がどこからともなく流れてくる。
 草葺きの小屋で語るウルティア兵の声が、アサレラの胸をかすめた。
 髪の色、マント、そして細剣。目の前の男はウルティア兵が語った人物とまったく同じ特徴を有しているのだ。

 ではこの男はフィロの父であり、ウルティア兵の危機を救った――そして吊り橋を壊した――剣士なのか。
 彼女はこの剣士のことをなんと言ったか。
 確か…………。

「…………あなたが素敵な剣士ですか?」

 なるほどな、とアサレラは得心した。確かにこの見た目なら、素敵と言われるのも無理はない、かもしれない。

「な……なんの話だ?」

 男は困惑の色を浮かべた。

「検問所でウルティア兵が言ってました。素敵な剣士が国境で魔物を倒すのを手伝ってくれたって。ええと……、フィロの父さんのことだったんですね」

「わたしはロモロだ」

 フィロの父――ロモロは、フィロほど長身ではないが、アサレラよりは幾分背が高い。アサレラはわずかに視線を上向かせ、ロモロを見た。

「おれはセイレムでフィロと会って、それから一緒にここへ」

「そうか、ありがとう、キミが息子を連れてきてくれたんだな」

 ロモロはフィロの両肩をつかんで優しく引き剥がし、フィロの目をのぞき込んだ。

「フィロ、家で待ってるように言っただろう?」

「でも、親父が、なかなか帰ってこないから……」

 気がつけば人輪は跡形もなくほどけ、カタニアは元の――といってもアサレラがカタニアに来たのは今日が初めてなのだが――姿に戻っていた。あれほど集まっていた人々は、抱き合う二人が親子と知って興味をそがれたのだろう。

「五日で帰るって言ってたのに……十日も」

「そうだな、すまなかった、フィロ。しかし外は危険だ。わかるだろう? 今回だって彼がいなければどうなっていたか……」

 どうやら成人男性同士であっても、父と息子であれば人の多く行き交う場所で抱き合っていても、なんら咎められるものではないらしい。

「ぜひ、息子を助けてくれた礼をさせてほしい」

 およそ十日ぶりの再会を果たした親子の会話はいつのまにか終わったようで、ロモロはアサレラのほうを向いていた。

「い、いや、おれは……別にそんな……」

 善意で行ったことではないというのに笑顔を向けられ、アサレラの心は罪悪感で軋む。心臓がばくばくと速まり、やけに冷たい汗が全身を流れる。

「お……おれのことはおかまいなく。どうせ、シルムへ向かう途中ですから」

 頭の深部が、割れるように痛い。

「だが、キミがいなければ、息子は無事でなかったかもしれない」

 アサレラは、きつく痛む頭部を右手で押さえつけた。

「それにフィロも…………」

「いえ、ほんとに、いいですから……じゃあ、おれはこれで……」

 一刻も早く痛みから逃れたい思いでロモロの言葉を遮り、アサレラは、じり、と一歩後ずさる。

 踏みしめていたはずの地面が、突然やわらかく歪んだ。

「えっ?」

 視界がぐるりと回り、天と地がひっくり返る。
 頭上に広がるはずの青が、なぜ足下に見えるのだろう。
 疑問に答えるかのように、アサレラの全身が激しく叩きつけられる。
 視界が暗い。声が遠い。
 糸がぷつんと切れるように、アサレラの意識は途切れた。