006:ウルティアへ

 広大な川に架かるには心もとない木をどうにか渡り終えたとき、フィロは裾を翻しさっさとカタニアの町へ行こうとしていた。

「待て。あそこに寄るぞ」

 フィロが足を止め振り返ったところで、アサレラは川のほとりにある小屋を指した。

 茂みの中にぽつんと佇む草葺きの小屋は、周囲の低い木立にまぎれて溶け込んでいる。

「……カタニアには行かないのか」

 青緑色の目に不満げな色が浮かぶ。表情を変えないわりに、フィロの感情はわかりやすい。

「その前に越境手続きをしないと」

 小屋の中には越境手続きをするためのウルティア兵が常駐しているという。コーデリアからウルティアへ行く人間は少ないのでさぞ暇だろうな、とアサレラは思う。

「…………すぐ終わるのか」

「たぶん……トラヴィス王の親書もあるし」

 国境を越えられないということは万が一にもありえないが、アサレラも実際に国境を越えたことはない。
 人を捜しているらしいフィロと異なり、アサレラに急ぎの用はないが、煩雑な手続きがないに超したことはない。
 フードを目深にかぶり、アサレラは扉を開いた。

◇◇◇

 結論からいえば、トラヴィス王の親書を見せるまでもなく、越境手続きは終わった。

 外観に違わず簡素な造りの小屋の中、日の差し込む窓辺の長椅子で、三十歳前後の女性兵士がうたた寝をしていた。
 温かく穏やかな日差しの昼下がりは、確かに昼寝には適した日和だろう。
 わざわざ起こすこともないとフィロが言うのに、そうはいかないだろうとアサレラは女性兵士を揺り起こした。寝ているところを起こすのはアサレラだって忍びないが、手続きをしないでのちのち面倒なことになるのはもっとごめんだ。
 目をこすって上半身を起こした女性兵士に、コーデリアからウルティアへの越境手続きを頼みますとアサレラが言うと、彼女はううんと伸びをした。

「ああコーデリアの人ね、別にこれといった手続きはないわ。ようこそウルティアに」

 この一言で終わったものだから、アサレラはいささか拍子抜けした。本当に形ばかりの手続きであった。
 ともかく面倒なことがなくてよかったと、礼を言ってフィロとともに小屋を出ようとしたところで、アサレラは女性兵士がこちらをじっと見ていることに気がついた。
 はじめは見目のよいフィロに見とれているのかと思ったが、女性兵士の目はあきらかにアサレラへ、もっといえばアサレラの顔へ向いている。

「……まだ、なにか?」

 あまりじろじろ見られて――それも顔を――いい気はしない。アサレラの声は知れず低くなる。

「いえ、ごめんなさい。……でも、あなたをどこかで見た気がするのよね」

「……おれを?」

「ええ。でもどこでだったかしら……」

 そう言われても、コーデリアから出たことのないアサレラに、ウルティア兵と顔を合わせる心当たりはない。
 女性兵士はうつむいて考え込んだが、すぐに顔を上げた。

「まあ、いいわ。あなたたち、あの木を渡って来たのよね」

「あれしかなかったもので。……以前はちゃんと吊り橋がありましたよね?」

 以前の吊り橋は十年前の時点で老朽化していたが、少なくとも木を倒しただけの「橋」よりかはずっとちゃんとしたものだった。

「あれね、五日前に壊れたのよ。それで応急措置としてあの木を置いておいたの。どうせ渡る人はいないからあれでいいと陛下はおっしゃったけど、やっぱりだめね。急いで作ってもらわないと」

 当たり前だ、と呆れを隠さないアサレラをよそに、女性兵士は軽い調子で語り続ける。

「魔物が出てね、そいつがすごく手ごわかったんだけど、ちょっと素敵な男の人が剣で助力してくれたの。そのときの戦闘の衝撃で壊れたのよ」

「へえ、魔物が……うわっ!」

 強い力でぐっと肩を掴まれ、強い力で押し飛ばされた。
 扉のそばで退屈そうにしていたはずのフィロがいつのまにか背後へ回り、アサレラを押しのけたのだ。尻餅をつくという醜態はさすがに免れたが、よろけてたたらを踏んだ。

「おい、なにを……!」

 横に立つフィロを睨み上げ、アサレラは思わずたじろいだ。女性兵士へ詰め寄るフィロのまなざしが、あまりにも剣呑な光を帯びていたからだ。

「どんな男だ。その剣士は」

「フィ……、フィロ?」

 女性兵士もフィロの異変を感じ取ったようで、困惑を表情へ上らせた。

「どんなっ、て……素敵な人だったわよ?」

「どう素敵なんだ」

 これまでの言動からは到底考えられないほど、フィロがなにかに興味を示している。
 素敵な剣士とやらが、よほど琴線に触れたのだろうか?

――いや…………ありえないな。

 そもそも、アサレラが帯剣していることにすら気がつかないフィロが剣士に興味を抱くこと自体が妙な話だ。

「物腰が穏やかで、細身の剣の使い方がさまになってたわ。ウルティアに細剣使いはめったにいないから、きっと外国人ね。それに髪が熟れたオレンジみたいな色でね、白いマントがたなびいて……」

 語るうちに素敵な剣士を思い出したのか、女性兵士の声色はどことなくうっとりしている。素敵なのは見た目のことかと、アサレラはいささか拍子抜けする。

「……そいつは今、どこにいる」

 その声に、アサレラの背が妙にひやりとする。

――こ、こいつはなにをそんなに怒ってるんだ……?

 語気を荒げて怒鳴っているわけではなく、青筋を立てて目をつり上げているわけでもない。相変わらずの静かな声と、無表情。だというのにフィロの纏う雰囲気は、下手に触れればたちどころに切れてしまいそうな剣呑さがある。
 肝が据わっているのか、それともよほど鈍いのか、女性兵士はフィロの異変に気づいた様子もなく膝に頬杖をついた。

「たぶんカタニアだわ。お礼がてらパレルモへ招待したかったんだけど、どうしても急いでいるって言うから」

 パレルモはウルティアの王都である。

「彼は通行許可証を持ってないって言ってたから、審査待ちのあいだはカタニアにいるはずよ。もしかしたら闘技場にいるかもしれないけど」

「マドンネンブラウへは通行許可証がなくても通れるんですか」

 素敵な剣士どうこうよりも、こちらのほうがよほどアサレラの興味を引いた。

「一応通れるわよ、審査にはだいたい五日から六日くらいかかるけど。王都で通行許可証を発行してもらうのはもっと時間がかかるから、一長一短よね……あの剣士様もそろそろ許可が下りて、マドンネンブラウに向かう頃じゃないかしら?」

「おい行くぞ」

 フィロはアサレラのマントの裾をむんずと掴み、アサレラの身体ごと引きずるように扉へ向かう。当然、首元はぎりぎりと締め上げられ、アサレラの呼吸は俄然苦しくなる。

「ぅぐっ、や、やめろフィロ、離せっ、首が、締まる……!」

 なにかに急き立てられているフィロは抗議など耳に入らないようで、すさまじい力でアサレラを引き立てる。

「じゃ、じゃあ、おれたちはこれで……っ」

 マントの襟と首のあいだにどうにか空間を作りながら、アサレラは女性兵士へ別れを告げた。