019:円形闘技場にて(前編)

 フラウィウス闘技場の内部は、試合を待ち望んでざわめく観客たちの熱気で蒸されている。
 アサレラは観客席を見上げた。最下部の平らな部分――アリーナをぐるりと取り囲むような観客席は四階建てになっている。
 これ以上見上げていたら首が痛くなりそうだ。アサレラは首を押さえつつ、肩越しにフィロへ振り返った。

「下のほうが空いてるけど……、真ん中のほうがいいかな。……どうする?」

 遠すぎればなにも見えないが、かといって近すぎれば戦闘の余波が来る恐れがある。

「…………一階は王侯貴族、二階は騎士と兵士。三階はウルティア市民。外国人は四階だ」

「そうなのか……じゃあ、おれたちは四階の……あ、あそこでいいか」

 四階の最前列付近、ちょうど二つ並んで空いている端の左席を指す。フィロが黙ってアサレラの指したほうへ進んでいき、端から二番目の席へ腰掛ける。アサレラもその左隣へ腰を下ろした。
 これから行われる試合は、本戦出場者を決めるための予選だ。
 最初の戦士はまだ現れない。アサレラはアリーナの階段を見つめた。

「ロモロさん、優勝するかな」

「親父は適当なところで棄権するだろうな」

 独り言のつもりだったが、意外なことにフィロは言葉を返してきた。

「準々決勝からは王族や貴族どもが観戦する……その前に」

 垂れる長い髪の隙間から垣間見える青緑色の目がいつもより重たい影に覆われている気がして、アサレラは思わず口を開いた。

「この前イスベルにも言ってたけど……どうしてロモロさんはそこまで目立ちたくないんだ?」

 アサレラが大衆の面前を避けるのは主にコーデリア王のせいであり、今はフードの下に隠れた銀髪のせいでもある。
 では、ロモロの理由とはいったいなんだろう。
 単に人目に立ちたくないだけ、なのだろうか。あのときロモロは、目立つようなことはできないと言った。目立ちたくないのではなく目立てないのではないか、とアサレラの内で疑念が頭をもたげた。
 フィロがゆっくりとアサレラへ振り返る。

「…………おまえは目立ちたいのか」

「そうじゃないけど……」

 その目に先ほどの暗い影はなく、アサレラは安堵のため息とともに否定の言葉を吐き出した。

――まさか、濡れ衣を着せられて逃亡中、とかじゃ……ない、よな。

 とは、さすがに口には出さなかった。
 フィロはなにも言わぬままアリーナを見つめている。答える気のない相手にこれ以上詮索する気もなく、アサレラは何気なく周囲を見渡した。こうして見ると、場内は椀のような形をしている。

 そのとき、周囲がわっと沸き上がり、アサレラは下を見た。顔の上半分を覆う仮面をつけた二人の女性がアリーナに現れたのだ。
 一人は斧を携えた金髪の戦士。もう一人は――

「………………ミーシャ……!?」

 緑色の髪の女性が、細身の槍を持って立っていた。
 思わず腰を浮かすアサレラに、すかさず背後から怒号が飛んでくる。

「おい兄ちゃん立つんじゃねえ! 見えねえだろうが!」

「す、すいませんっ」

 反射的に謝罪し、ひとまず腰を下ろしたアサレラは、隣のフィロの肩を掴んで揺さぶった。

「フィロ! あの、緑の髪の女! カタニアで会わなかったか!?」

 フィロは鬱陶しそうに眉をひそめたが、手を払いのけることはしなかった。

「オレは知らん」

「ロモロさんに薬草を渡した女がいただろ!」

 フィロは少し考える素振りを見せ、ああ、と頷いた。

「親父に薬草を渡した女の髪は、確かに……緑だった。あの女は名乗りはしなかったが、おまえのことを知っているようだった。あの色はウルティア人にはいないはずだ……おそらく、コーデリア人かマドンネンブラウ人だろうな」

 いつになく饒舌なフィロに、アサレラの胸は逸る。

「じゃあやっぱりあいつは……!」

「…………それより、手を離せ」

「あ、ああ……、悪い」

 ちらりと視線だけ向けられ、アサレラはようやくフィロの肩から手を離した。
 再びアリーナを見下ろすフィロの目が、すっと細くなる。

「…………相手は、どこぞの馬の骨のガキか」

「えっ?」

 つられてアサレラが再び下を見ると、金色の髪を二つに括った戦士が斧を携えて舞台の中央に佇んでいた。

「あれは昨日の……確か、リューディア……か?」

 そうアサレラがつぶやいた矢先、足下で男たちのがなる声が聞こえた。

「リューディアの相手はよそもんの女みてえだな!」

「リューディアって、ノーラ殿の弟子のリューディア=シャウエルテか? あのガキももう十五になるんか、俺も年を取るわけだ!」

 直後、アサレラたちの座るすぐ背後で、怒号にも似た女戦士たちの声援が響き渡る。

「リューディア=シャウエルテ! ノーラ様の教えを受けた戦士よ! おまえの力を見せてみろーッ!」

 これほどまでに正体が知れ渡っているのなら、あの仮面に意味はあるのだろうかと、アサレラは思う。
 いや、それよりも。

――ミーシャ、あいつ……エステバン杯に出るつもりだったのか!?

 確かにミーシャはウルティアの闘技場で教会の修繕資金を稼ぐのだと言っていたが、それがまさかエステバン杯だとは思いもしなかった。
 稼ぎのことだけを考えれば、誰しも町中の闘技場よりもエステバン杯の出場を選ぶだろう。だがエステバン杯に出場するのは精鋭の戦士ばかりだという。ミーシャは槍を持ってはいても、ただ持っているというだけで戦士としてはほど遠い。

 一方リューディアは成人前の子どもといえど高名な戦士の弟子であり、ウルティアでこれほど名が知られている。曲がりなりにも魔物との戦いの中に身を置いていたアサレラであっても勝てないかもしれない相手に、戦士ですらないミーシャが勝てる道理は万が一にもない。

「よせミーシャ! きみに勝てる相手じゃない!」

 叫ぶアサレラの声は、周囲の喚声によってかき消される。
 リューディアが高く跳躍したかと思った瞬間、ミーシャの槍は真っ二つに叩き割られていた。
 リューディアの勝利を讃える歓声がわっと響く。あっという間に勝敗は決した――かに思われた。

 ミーシャは折られた槍を握りしめ、その穂先をリューディアに向けたのだ。その所作のすべてが、まだ戦う意思はあるのだと告げている。
 構えを解いていたリューディアが、再び戦闘態勢に入る。

「ミーシャ! 棄権しろ! このまま戦ったら死ぬぞっ!」

 例えリューディアに殺すつもりはなくとも、ミーシャが無謀にも挑み続けば万が一ということもあるだろう。

「ミーシャ! 死にたいのか! きみに戦いは無理だ!」

 周囲のウルティア人たちがリューディアの名を大きく叫ぶ中、アサレラは声を張り上げてミーシャを呼び続けた。

「棄権しろミーシャ! きみが死んだらタスポートの教会はどうなるのんだ! わからないのか! ……ミーシャ!」

「このままでは……あの女。…………死ぬだろうな」

 雨音のようなフィロの声がぽつりと落ちた瞬間、かっと熱いものがアサレラの胸を突いた。
 その感情の正体がわからないまま、アサレラは反射的に立ち上がった。

「フィロ、きみはここにいろ!」

 アサレラは左脇の階段へ飛び出した。顔を合わせれば傷つけ合ってばかりといえど、さすがに知人を見殺しにはできない。ミーシャにこの声が届かないのなら、もっと前へ行かなければ。

 駆け下りるアサレラが一階へたどり着こうかというとき、ミーシャに変化が訪れた。苦しそうにうめき声をあげ、その身体を折ったのだ。戦斧を構えたままのリューディアが戸惑ったように動きを止めている。

 ミーシャの腹が大きく割れ、そこから黒い闇が煙のように立ちこめた。

「な……なんだ、あれは……!?」

 悲鳴にも似た引きつった声がどこからか聞こえる。
 痺れたように身体が動かず、アサレラは慄然と立ちすくんだ。

――い、いったい……どうなってるんだ……!?

 もだえるミーシャの足下へ仮面が落ちる。腹を押さえる指先から、血とも闇ともつかないものが滴り落ちる。
 ミーシャの腹を裂いて現れた闇が、渦巻きながら集まっていく。

 とうとうミーシャが膝をつき、闇が人間の女性の形となったとき、ミーシャの身体は支えを失ったかのようにその場へ倒れ込んだ。

 女を模った闇は、錆びた金属のような目で足下で倒れ伏せるミーシャを一瞥した。

「思ったよりも早かったようだな」

 闇はぐるりと周囲を見渡し、アサレラの上でひたと視線を止めた。
 アサレラはどうにか声だけでも上げようとするが、かすれた声が喉の奥で震えるだけだった。心臓が突き抜けそうに激しく脈打つ。

「愚かしい人間どもよ、よく聴くがよい」

 水を打ったように静まり返る場内へ、シルフの声が響き渡る。

「わたくしはシルフ。偉大なる支配者パトリス様の眷属だ。…………きさまたちには、魔王と魔人と言ったほうがよいかもしれんな」