018:人間とは

 イスベルが優雅に立ち去ったとき、フィロを伴ったロモロが戻ってきた。

「待たせたな」

 夕日の中に佇む二人はまぶしく、アサレラは目を眇めた。

「い、いえ。……リューディアは?」

「宿に行くと言っていた。明日、試合でまみえるかもしれないな」

 微笑を浮かべるロモロを直視できず、アサレラは目を伏せた。

「………アサレラ殿? ……なにかあったのか?」

 先ほどイスベルに素性を看破されてからというものの、アサレラはしきりに周囲を見渡してみたり、マントの裾を引っ張ってみたり、フードを深くかぶり直してみたりと、とにかく落ち着かなかった。
 だが、その理由を自ら言うことは憚られた。おのれの浅慮をわざわざ明らかにすることになるからだ。

 フィロのまっすぐな視線が、ロモロの窺うような視線が突き刺さる。
 胸が炙られるような焦燥感を覚え、アサレラは踵を返した。

「……………………イスベルが宿を取ってくれたみたいですから……行きましょう」

 ばさりと翻るアサレラの黒いマントが、夕映えを受けて赤く染まった。

◇◇◇

 イスベルの手配した宿で食事を取る最中も、アサレラは浮き足立っていた。
 早々に寝台へ横臥しても、アサレラの頭はすっかり冴えきっていた。

 アサレラの正体を黙っていると言ったイスベルにはなにか意図があるのではないか。今に他のウルティア人にも見破られるのではないか。ロモロとフィロは、おのれの不手際――イスベルに聖者だと見抜かれたこと――を糾弾するのではないだろうか。

 そんなはずはない、たとえそうだったとしても、そんなものは黙殺すればなんの問題もない。
 そう思いはしても、アサレラの心はざわざわと波打った。
 まだおのれが聖者だと決まったわけではない、という問題ではない。短慮を誹られるのは当たり前のことだ。

 アサレラはごろりと寝返りを打った。
 不安を警告するように胸が軋む。
 とても寝付けそうになく、アサレラは目を開き、半身を起こした。
 眠れないのに寝台で横たわっているよりも、剣でも磨いたほうが良いだろう。

 そう立ち上がったアサレラの視界に、きらりと光るものが飛び込んだ。
 見れば、深い闇に覆われた窓の外に、かすかに浮き上がる人影がある。

「……あれは……、ロモロさん?」

 こんな夜半になにをしているのだろうか。
 わずかな逡巡の後、アサレラは剣を鞘ごと握って部屋を出た。

◇◇◇

 薄雲に包まれた月の明かりが、夜の闇をぼんやりと照らしている。
 ぼうっとした光に浮かび上がるロモロの後ろ姿へ、アサレラは歩み寄っていく。
 時折きらりと光るのがロモロの細剣だとわかったとき、アサレラは足を止めた。ブーツの底で岩に擦れて小さな音を立てる。

「アサレラ殿」

 アサレラが声をかけるよりも早く、振り返ることなくロモロが呼びかけた。

「…………ロモロさん。……すみません、おれ、邪魔でしたか?」

 ロモロは一人で鍛錬をしていたのだろう。アサレラはそれを中断させる形となったというのに、ロモロはそんな様子を微塵も見せずに微笑した。

「いや。そろそろ戻ろうかと思っていたところだ」

 こちらへ振り返りながらロモロは剣を納める。金属と金属の擦れる音がアサレラの鼓膜をかすかに震わせた。

「アサレラ殿の髪をこうして見るのは、あのとき以来だな」

「……あのとき?」

「キミが倒れたときだ。カタニアで」

 胸の中へ、濁流のようになにかが流れ込んだ。
 そうしてから、歪んだ顔をロモロに見られずにすんだのは幸いだったと、アサレラは思う。
 キラービーごときのせいで死にかかり、しかも大衆の面前で昏倒したカタニアでの出来事を蒸し返されたくなかった。

 が、ロモロがいなければとっくに死んでいたことは事実なので、アサレラにそんなことを言う資格はない。

「あのとき……ロモロさんに助けてもらわなかったら、おれ、たぶん、死んでたと思います」

 返事はなかった。

 不意に訪れた静寂は、じわじわとアサレラの内へ浸食するようだ。
 昼のうちは過ごしやすくとも、秋の夜は冷える。マントも鎧もない胴衣では心もとないが、寒さに震えるほどではない。

 では、アサレラの手を震わせる、この感情はいったいなんだ。

 気がつけばアサレラの左手は、脇に抱えている剣の柄を握っている。
 死ぬ前に必ずアデリスを見つけ出し、この手で殺さなければ。ロビンもコートニーも魔物の手にかかった今、せめてアデリスだけでも殺さなくては。それができなければ、これまでの十九年間はなんのために生きてきたのか。おのれが聖者か聖者でないかよりも、そちらのほうがアサレラにとってよほど重要だった。

「すまなかった、アサレラ殿。あのときわたしは、キミを捨て置くつもりだった」

 沈黙を破るロモロの声。
 アサレラは、剣の柄をしっかりと握りしめる拳の、その一本一本の指を意識した。

「…………倒れたキミのフードが外れ、銀色の髪が見えたとき、申し訳ないが……もしかしたら人間ではないのかもしれないと……、そう思ったのだ。あの緑の髪の女性に薬草を渡されなければ……」

 雲が流れ、月がその姿を現す。
 力を込め剣の柄から離した手で、アサレラはおのれの前髪をつまんだ。
 月明かりを受けて輝く銀色は刃よりもなお鋭く、あの月暈のごとく光を含んでいる。人間ではないと言われれば、まあそうだろう。

「他人を助けないのなんて、当たり前じゃないですか」

 わずかにうなだれるロモロへ、アサレラはつとめて明るい声を出した。

「おれを助ける奴なんか今までいなかった。おれはあのとき放置されたとしても、ロモロさんたちを恨まなかった。だから、その……ありがとう、ございます」

 薄い雲が月にかかる。
 周囲は再び、ぼんやりとした光に包まれた。

「わたしのほうこそ礼を言いたい。フィロを助けてくれてありがとう……できれば、息子と仲良くしてくれればありがたいのだが」

「おれは別に、フィロを助けたつもりは…………」

 言ってから、先ほどのロモロの言葉の意味が遅れて染み渡る。

「……えっ、な、仲良く? けど、フィロは迷惑なんじゃ……」

「そうでもないさ」

 アサレラはなおも問いかけたかったが、どこか満足げなロモロが「そろそろ戻ろう。明日も早いからな」と言うので、言葉を飲み込み彼の後へ続いて宿へ戻ることにした。

◇◇◇

 青い空に薄い雲の広がる翌朝、一行は日の出とともに宿を発った。
 エステバン杯に熱狂するウルティア人の中に、アサレラたちに注意を払う者は誰一人としていなかった。アサレラはほっと安堵しつつ、闘技場に至る坂を上る。先を進むロモロの白いマントが目の前ではためく。

「いったい聖者様はなにをしてやがるんだ!」

 すぐ背後で響いた太い怒号に、アサレラはぎくりと動きを止めた。

「聖王国のイヴシオン大聖堂が襲撃されたっていうじゃねえか。早いとこ魔王を始末しねえと世界は終わりだぜ!」

 恐る恐る振り返れば、巨体の男が二人、戦斧と酒瓶を抱えてがなり立てている。

「コーデリアを発ってもう数日だろ? そろそろマドンネンブラウに着いてもおかしくねえんだがな……」

「イヴシオン大聖堂が襲撃? それは魔王のしわざか? 聖剣レーゲングスは無事なのか?」

 男たちの会話にロモロが割り入る。

「なんだおめえ、いっぺんに質問すんじゃねえ! 襲撃したのは魔王じゃなくて魔人。聖剣は神官が持って逃げたらしい。そう聞いたぜ」

「えーっと、魔人って……魔物とは違うのか?」

 慎重にフードを引っ張りながら、アサレラも男たちへ問いかけた。

「魔人っつうのは人の皮を被った魔物だよ」

「じゃあ、人型の魔物……ってことか?」

 アサレラが今まで目にした魔物は、どれもこれも人とはかけ離れた異形であった。

「おうよ、見た目は人間そのまんまらしい。人の言葉を話すし、剣とか槍だって使うらしいぜ」

「…………それって、人間じゃないのか?」

 人間そのものの見た目で人語を解し、武器まで扱うとなれば、それはもはや人間ではないのか。
 しかし男は軽蔑するように鼻を鳴らした。

「奴らは魔術を使うのさ」

「魔術?」

 昨日対峙した目玉の魔物イービルアイのことを思い返していると、目の前で薄紫色の髪が炎のように揺らめいた。

「…………おまえたちの、人か、人でないかの基準は、魔力の有無だと。そう言いたいのだな」

 今まで黙っていたフィロが、長い髪をゆるやかになびかせて、ロモロと男たちのあいだへ割って入る。

「では、人間の形をした魔術使いは人間ではなく、魔力のない異形の者は人間だと、そういうことだな」

 底深い光を湛えた青緑色の目が、男たちを傲然と見下ろした。
 昨夜の月光よりも輝かしく、アサレラの髪の色よりも鋭い光が。

 アサレラの背中がひやりとする。

「フィロ……!」

 ロモロが慌てたようにフィロの手を掴むと、フィロの眼光はわずかばかりやわらいだ。

「誰もんなこと言ってねえよ」

 動じていないらしい男は、瓶の口から葡萄酒をぐっと呷り、一息ついた。

「ま、なんにせよ、聖者様がさっさと魔王を倒してくれねえと、俺らが安心して葡萄酒を飲めねえってんだ」

「そりゃあ言えてるな」

 呆然としていたアサレラも、ようやく足を踏みしめて喉を震わせた。

「聖者が魔王を殺すのは、きみたちのような奴のためじゃ……」

「おい。……もう行くぞ」

 雨だれのように静かな声に、アサレラははっとする。

「そ、そうだな。……じゃあ、行こうか」

 さわやかな朝の冷気を孕んだ風が、アサレラの黒いマントを、ロモロの白いマントを、そしてフィロの赤い長衣を揺らす。
 重い足を引きずるように、アサレラは再び坂を上り始めた。

 一行が無言で歩いていると、やがて崖下に広がる海が青く輝くのが見えた。
 太陽に照りつけられた青い海は、目を射るほどまぶしい光を散らせている。
 どこまでも渺々と青い色は、いつか夢で見た女の髪を想起させた。

――……あの女…………なんて名前だったかな。

 一度きり見た夢など、たいして気に留めるほどのことではない。
 そう思いはしても、心のどこかに彼女のことが引っかかっている。
 青い髪を揺らして白いドレスを纏う、アサレラの名を呼んだ彼女のことが。
 まもなくしてたどり着いたフラウィウス闘技場の入り口は、すでに戦士たちで賑わっていた。

「アサレラ殿、わたしは先に行くが、フィロを頼む」

 先頭を進んでいたロモロが振り返る。

「観戦のときは危険のない場所でな」

「あ、はい……わかりました」

 アサレラは頷き返し、円形の建物へ吸い込まれていくロモロの背中を見つめた。